マンションの奥に待っている“扉”
中野駅の北口から、線路沿いを歩いて3分ほどの場所に現れるマンション。その奥へ進んでいくと、趣のある木製の“扉”が待ち構えている。
同じく木製の看板には『奥の扉 カフェ ポルト デュ フォン』の文字。ひっそりとした扉の様子は、まさに店名を象徴しているかのようだ。
店に入ると、常連さんと会話を楽しんでいた物腰の柔らかいマスターが「いらっしゃいませ」と出迎えてくれる。初めて入店するには少し勇気のいる店構えだが、その一言にほっと気持ちが安らぐ。
店内にはカウンター席のほか、ゆったりと並んだテーブル席があり、外から見るよりも奥行きがある。窓から優しい明かりが差し込むテーブル席は、誰かと会話を楽しみたいとき、一人でゆっくりとコーヒーを味わいたいときなど、さまざまな時間を彩ってくれる特等席だ。
1976(昭和51)年から営業を続ける『奥の扉』は、マスターの野山武さんが33歳のときに開いた店。
喫茶店を開いたきっかけは「原宿の喫茶店『アンセーニュ ダングル』に初めて足を運んだとき、斬新なインテリアとコーヒーの奥深い味わいに衝撃を受けたんです」。
当時サラリーマンをしていた野山さんだったが、「自分でもこんな店を開いてみたい」という強い思いで一念発起。会社を辞めて喫茶の世界へと飛び込んだ。そこから『アンセーニュ ダングル』のオーナーに弟子入りをして修業を積むこと1年。縁があって導かれた中野の地で、『アンセーニュ ダングル』のデザインを手掛けた建築デザイナーの松樹新平さんに店のデザインを依頼し、念願の喫茶店をオープンした。
それから47年。現在では近所から遠方の人、若者からお年寄りまで、幅広い人たちに愛される喫茶店となった。
店内に散りばめられたこだわりのインテリア
店内にいるお客さんは、仲間と語らう人、読書にふける人、コーヒーをゆっくりと味わう人と、思い思いの時間を過ごしている。
クラシックやジャズが心地よく流れる空間は、駅の近くとは思えないほど落ち着きがあり居心地がいい。
その理由のひとつが、店のインテリアだろう。
デザイナーである松樹さんのセンスがところどころに光るインテリアは、洗練されていながらどこか温かみも感じられる。
店の重厚感を格上げしている壁は、創業当時は真っ白だったそう。
「時間とともに自然とこの色になりました。今は完全禁煙にしていますが、昔はタバコを吸われる方も多かったですしね」
店のインテリアには、そんな喫茶店の長い歴史も刻みこまれている。
他のインテリアになじみながらも、ひときわ存在感を放つ“ベティ”の人形は「普段はあまり人形は買わないんですが、これはアメリカのロサンゼルスの郊外で一目惚れして買いました」と野山さん。
デザイナーのセンスが光るインテリアの中には、店の歴史とマスターの色が散りばめられており、この店にしかない空気をまとっている。
深煎りコーヒーをはじめ、メニューはドリンクのみ
メニューは、コーヒーや紅茶をはじめとするドリンクメニューのみを提供。
シンプルでわかりやすく、コーヒーだけをゆっくりと味わいたい人にとっては、もってこいの場所だろう。
この日いただいたのは、一杯600円のブレンドコーヒー。『アンセーニュ ダングル』と同様に、エイジングコーヒーの老舗『コクテール堂』のコーヒー豆を使用している。深いコクと苦味を感じられるフレンチローストのコーヒーは、心の奥までじっくりと染み渡ってくるようだ。
コーヒーを味わってひと息ついたところで、野山さんに喫茶店のマスターとしてのやりがいを尋ねてみた。
「いろんな人たちに出会えることかな。人の話を聞くことで知識が増えるし、人に会うことで自分の身だしなみや健康を意識することができています。この仕事をしていると“人のためは、自分のため”だと常々感じます」
今後については「先のことはわからないけれど、まずは50周年を目指したいですね」と笑顔で語る野山さん。
気の置けない仲間や家族とゆっくり会話を楽しみたいとき。はたまた、一人でゆっくりとコーヒーに向き合いたいとき。『奥の扉』を開ければ、とっておきの隠れ家が待っている。
取材・文・撮影=稲垣恵美