壁に貼られた「おすすめメニュー」に注目
一見すると、ごく普通の中華料理店なんである。ランチは麻婆豆腐とか青椒肉絲といった定番のセットだし、夜のグランドメニューを見ても四川料理を中心に幅広く取り揃えてはいるものの、オーソドックスな「日本人向けの中華」が並ぶ。
しかし、この店の真髄は壁に貼られた「おすすめメニュー」にこそある。日本ではなかなか珍しい、中国南部・貴州省の料理も出しているのだ。
そのひとつ、酸湯牛肉のスープをひと口すすると、さわやかな刺激が広がった。酸っぱさの中にも、いろいろな旨味が溶け込んでいる。貴州省を代表する鍋モノなのだという。
「みじん切りにしたカボチャとパプリカ、ショウガ、ニンニクなどを塩と酒に漬け込んで、発酵させるんです。夏は1週間くらい、冬は1〜2カ月ですね」
と語るのは、店長の王ワン正チェン進ジンさん(36)。発酵が進むにつれて酸味が強く、旨味が濃くなってくるが、これをベースにしたスープなのだ。そこに牛肉や豆もやし、春雨を加え、さらに貴州特産の「木姜子(ムージャンズ)」という山椒のようなスパイスを加えれば、すっきりとした香りが立つ。酢はいっさい使っていない、発酵だけをもとにした酸味が後を引く。
「貴州は山が多い地域なんです。昔は交通も不便でした。だから、保存の利く発酵食品がたくさんつくられるようになったんです」
酸豆角肉末もそのひとつだ。発酵させたササゲとひき肉の炒め物で、これはご飯にもビールにも合う味だ。ササゲは店内で漬けていて、でっかい瓶に詰められて発酵が進んでいく様子を見ることもできる。
こうした発酵食品に加えて山の幸をふんだんに使うことが貴州料理の特徴だが、とりわけ折耳根(ドクダミの根)は珍しい食材だろう。これを豚肉を塩と酒とで漬けて乾燥・燻くん製せいさせた「腊ラー肉ロウ」と炒めた一品はとくにいける。腊肉からにじみ出る旨味と、ドクダミ独特の苦みがよく合う。
「ドクダミは千葉で畑を借りて、自分で栽培しているんです」
と王さん。ドクダミの葉のほうはあえ物に使うそうで、こちらは余っていれば「裏メニュー」で出してくれる。
そして貴州は「中国でいちばんおいしい唐辛子ができることで有名」だとかで、これをたっぷり使った辣子鶏は中国人客の誰もが頼むという。とにかく辛いが、発酵と並んで唐辛子の刺激もまた貴州の味わいなのだとか。
日本在住の貴州人はたったの200人?
ところで、日本に暮らす貴州省出身の人たちは「200人くらいしかいないんじゃないかな」と王さんは言う。在日中国人が74万5000人もいることを考えれば、この数字はあまりに寂しい。ちなみに日本に多いのは、黒竜江省や遼寧省といった東北地方、福建省などの人々だ。
「貴州の人は、あまり外に出たがらないですよね。お金があっても地元で商売をしようというタイプが多いです」
だから海外を目指す人も少なく、日本にいる貴州人もわずかな人数に過ぎない。その多くは留学生や、留学後に就職をした会社員なのだとか。おもに都内に散らばっているが、これといった集住地はない。あえていえば、この王さんの店がコミュニティーなのだ。「毎日、誰か貴州の人が来てくれますね」と笑う。
貴州料理のベースをつくった少数民族ミャオ族とは
王さんは貴州東部の「黔东南(チェンドンナン)」という地域に生まれた。ここは中国の行政区分では「黔东南苗族侗族自治州」となる。少数民族として知られるミャオ(苗)族と、トン(侗)族がたくさん暮らす山里だ。
そして王さん自身も、ミャオ族なのである。
人口1000万人といわれるミャオ族は、貴州から雲南、四川などにまたがって住む。タイ北部やミャンマー、ラオスにも暮らしているが、こちらは「モン族」と呼ばれている。
彼らは「中華化」に呑み込まれ、いまでは中国の少数民族のひとつとなっているが、それでもオリジナルな文化を守り続けてきた。発酵食品もそのひとつ。木姜子も、ミャオ族が好んで使うスパイスだ。
そんなミャオ族の祖母がつくってくれる料理に、王さんは親しんで育った。それに両親はレストランを経営していて、調理をする姿を小さい頃から見ていたし、よく習った。王さんも、いつしか料理が大好きになっていた。
もうひとつ、子供の頃に夢中になったものがある。日本のアニメや漫画だ。
「とくに好きだったのは『キャプテン翼』や『スラムダンク』でしたね」
それもあって、日本への興味が膨らんだ。やがて、貴州では珍しく、海外へ、日本への留学を果たすことになる。2009年のことだ。そして卒業後は日本の飲食企業で経理として働いていたが、「やっぱり、料理がつくりたかったんです」と、2015年に独立し、開業。場所はここ御徒町を選んだ。学生の頃、このあたりの飲食店でアルバイトをしていて、なじみがあったからだ。
当初は日本人客を想定し、四川料理や餃子を中心に日本人にもよく知られたメニューを出していたそうだ。しかし数少ない貴州のお客から、ふるさとの料理も出してほしいとリクエストが入るようになる。そんな声を受けて、2年ほど前から故郷の味を少しずつ提供し始めた。
「子供の頃の記憶を、おばあちゃんの料理のことを思い出して、研究しながらつくっているんです」
やがてその味は日本に住む貴州の人の間で評判となり、彼らが集まってくる店になった。
御徒町はここ数年で中国でも東北料理の店が急増してきたが、その中にあって王さんの店は貴州人の小さなコミュニティーになっている。
『王さん私家菜』店舗詳細
取材・文=室橋裕和 撮影=泉田真人
『散歩の達人』2022年8月号より