これも飲んでくれん?

「もう大食いとかどうでもいい」と初めて思った。とりあえず私の皿の上の肉を全て食べ切ると、いつもは負けず嫌いの友達が、絞り出すような声で「ごめん、もう無理や。これ一個食べてくれん?」と言った。彼は口をパンパンにして、自分の皿に残った最後の二切れの肉を見つめている。

私も腹に全く余裕はない。一切れや二切れくらい残してしまえばいいんじゃないかとも思ったが、ここで私たちが少しでも肉を残すことはバイキングへの敗北を示すような気がした。覚悟を決め、お互い一切れずつ肉を口に運ぶ。噛んでも噛んでも肉が消えず、ようやく飲み込んだ頃には制限時間の90分に達していた。

あきひろおっちゃんが、おい、行くぞ、と私たちを促す。腹を刺激しないよう体をよじって立ち上がった私を、友達が悲しい目で「待って」と引き留めた。

「これも飲んでくれん?」

緑と白の絵の具を溶かしたような液体。友達がファンタや麦茶、オレンジジュース、リアルゴールドその他諸々をドリンクバーで面白半分に調合したものだった。おまえが作ったんだからおまえが飲めよと言いたかったが、実際問題、彼がそれを飲むのは不可能のようだった。しかし今の私に飲めるだろうか。躊躇していると、先に席を立ったあきひろおっちゃんが引き返してきて「お前ら何しよんや、はよせえ」と若干イラついた様子を見せ始めた。ビビった私は反射的に「ハイッ」と返事をした勢いでコップを取り、一気に液体を飲み干したのである。

さまざまにブレンドされたどの飲み物にも寄っていない、曖昧な味が口いっぱいに広がった。腹の中の大量の寿司や焼き肉が全て謎のジュース味で上書きされていく。味について考えてしまうとヤバい。そう直感し気を逸らそうと試みるも、レジの前まで辿り着いたときに再びさっきの味が押し寄せてきた。

気付くと床に少量の吐瀉物が落ちていた。それを自分が吐いたのだと認識した瞬間、ギリギリで持ちこたえていた堤防が決壊し、私は床に膝を突いた。そこから数十秒、呻き声を上げながら胃の中の物を全て吐き出した。みんなが俺を見ている。涙で曇った視界が、現実を夢の中のように見せた。

胃の中のものがなくなると今度は急に恐ろしくなった。やばい。あきひろおっちゃんにブチ切れられる。床の吐瀉物をただ呆然と見つめ、迫りくる怒号に身構えていた時。おしぼりでゲロを拭くおっちゃんの手が視界に入った。

「おい大丈夫か」。大量のゲロが手に触れるのも厭わず淡々とおしぼりで拭いていくおっちゃん。大人ってなんて大きくてかっこいいんだろう。

最低の男

それ以来、私は大食いにこだわることをやめた。あれからあきひろおっちゃんに会ったこともない。後年、伝え聞いたところによると、おっちゃんはその後愛人問題で家庭内へ不和をもたらしたようで、思春期を迎えた友達のいとこは「あいつは最低の男や」と私に告げた。

しかしおっちゃんの家庭への裏切りよりも、あの日ゲロを拭いてくれた手の大きさの方が私にとってはリアルだった。そう言えばおっちゃんの古い本棚に星新一の本やハヤカワのSF全集がびっしり揃えられていたこともなんでか覚えていた。たとえ最低と言われるような行為をしたとしても、その人の全てが最低だなんてことにはきっとならないのだろう。いつしか私はそんなことを考えるようになった。

内容的にお店でのロケはむつかしそうなので、かっぱ橋でのぼりを買って撮影。
内容的にお店でのロケはむつかしそうなので、かっぱ橋でのぼりを買って撮影。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2022年1月号より