横浜からスタート。初代横浜駅は今の桜木町駅

日本の鉄道開業の日は、1872年10月14日で10月14日は「鉄道の日」とされていますが、この日に先立って1872年6月に横浜~品川間が仮開業しました。

ということで、スタートは横浜。品川駅と共に日本で最初に開業した駅となった「横浜駅」といっても、現在の駅は3代目で場所が違う。初代はどこにあったかというと、現在の桜木町駅の位置となります。外国人居留地のすぐ近く、大岡川河口の畔に設置されました。居留地には土地が無かったため、隣接する埋立地に駅を設置したのです。横浜駅は大阪方面への延伸と関東大震災によって、合計3回線路と駅の位置が移転。二度目の移転時に桜木町駅へと改名しました。

桜木町駅南改札を出た先の柱に横浜駅移転の歴史がある。左の地図を見ると横浜は入江で、海上築堤を築いて線路を敷設。築堤工事を請負ったのは実業家の高島喜右衛門で、その名を取って現在の高島町となる。高島2丁目には、海上築堤の名残と思しき緩い右カーブの道路がある。
桜木町駅南改札を出た先の柱に横浜駅移転の歴史がある。左の地図を見ると横浜は入江で、海上築堤を築いて線路を敷設。築堤工事を請負ったのは実業家の高島喜右衛門で、その名を取って現在の高島町となる。高島2丁目には、海上築堤の名残と思しき緩い右カーブの道路がある。
複数の柱には開業時からの歴史が模型と地図で綴られ、図書館へ行かずとも鉄道事始めの概要が分かるので便利。
複数の柱には開業時からの歴史が模型と地図で綴られ、図書館へ行かずとも鉄道事始めの概要が分かるので便利。
新南口直結「CIAL桜木町ANNEX」は2階まで吹き抜けのビル内に青梅鉄道公園から移設された110形蒸気機関車を展示。掃除の行き届いた室内に展示され、行き交う人々に興味を持たれて110形も幸せそう。
新南口直結「CIAL桜木町ANNEX」は2階まで吹き抜けのビル内に青梅鉄道公園から移設された110形蒸気機関車を展示。掃除の行き届いた室内に展示され、行き交う人々に興味を持たれて110形も幸せそう。
2階踊り場からも車両を観察できる。連結器は現在のものとは異なり欧州と同様なねじ式タイプ。緩衝器(バッファー)も装備され、ヨーロピアンスタイルであった。
2階踊り場からも車両を観察できる。連結器は現在のものとは異なり欧州と同様なねじ式タイプ。緩衝器(バッファー)も装備され、ヨーロピアンスタイルであった。
中等クラスの客車から110形をみる。通勤電車のようにお見合いタイプのロングシートであった。
中等クラスの客車から110形をみる。通勤電車のようにお見合いタイプのロングシートであった。
住所:神奈川県横浜市中区桜木町1-1-93/営業時間:ショッピング・サービス=10:00~21:00 レストラン=11:00~23:00(店舗により異なる場合あり) /定休日:無/アクセス:JR根岸線桜木町駅新南口直結、横浜市営地下鉄ブルーライン桜木町駅から徒歩1分

桜木町駅新南口改札辺りが初代「横浜駅」の駅舎があった場所でした。広場には「鉄道創業の地」記念碑があります。目の前の大岡川と弁天橋が位置関係の目印になります。

この記念碑には双頭レールが組まれていて興味深い。双頭レールとは片方の頭が車輪で摩耗したらひっくり返して再利用できるタイプで、日本では1872年から僅かしか使用されておらず、これはその頃のものでしょう。さりげなく150年物の遺構に出会えて触れられるのです。

桜木町駅の柱の展示から。新旧の地図が重ねられていて位置関係が大変分かりやすい。
桜木町駅の柱の展示から。新旧の地図が重ねられていて位置関係が大変分かりやすい。
新南口改札の広場にある記念碑。ちょっと地味だけど近づくと柱部分には双頭レールが!
新南口改札の広場にある記念碑。ちょっと地味だけど近づくと柱部分には双頭レールが!
双頭レールは独特な「∞」の形状で見慣れない。側面に製造の刻印がないか探したが見当たらなかった。これが150年前のレールか……。
双頭レールは独特な「∞」の形状で見慣れない。側面に製造の刻印がないか探したが見当たらなかった。これが150年前のレールか……。
開業時の時刻表も刻印されていた。
開業時の時刻表も刻印されていた。
広場脇の地下道入口には……。
広場脇の地下道入口には……。
「駅長室跡」のレリーフ?が。
「駅長室跡」のレリーフ?が。

新橋駅へ行く前に品川駅に寄り道

次に本開業の起点となった新橋駅へ行く前に品川駅を通るので、寄り道しましょう。1872年6月の段階では新橋までの工事が進行中のため、品川駅は仮の起点駅として開業し、今年の6月で150歳。駅の位置は現在地と異なり、京急本線と八ツ山橋が交差する辺りに設置されました。古写真では相対式ホーム2面2線の超シンプルな構造で、それが150年後には東海道新幹線も行き交い、大規模なエキナカもある巨大な駅へと成長したのだから、改めて長い年月の技術進歩と発展を感じさせます。

150年前の開業時とは直接関係ないものの、品川駅には山手線と品鶴(ひんかく)線の0キロポストと、昔の郵便電車クモユニ74形を模した本物の郵便ポストがあります。鉄道発祥の地・品川駅に相応しいようにと郵便電車型にしたのだとか。

品川駅を利用する人にとっては郵便電車ポストの存在が日常ですが、考えてみたら全国でここしかない存在です。ちょうど観察していると「電車のポストがある!面白い〜」と、初めてその存在を知る人が笑顔になっていました。

山手線・品鶴線0キロポストとクモユニ74形郵便ポスト。郵便ポストは東海道線色(湘南色)をまとう。国鉄時代は郵便輸送列車が盛んで、各地を結んで郵便輸送に勤しんだ。ポストの形状活かしながら郵便電車をデフォルメしてうまく制作している。
山手線・品鶴線0キロポストとクモユニ74形郵便ポスト。郵便ポストは東海道線色(湘南色)をまとう。国鉄時代は郵便輸送列車が盛んで、各地を結んで郵便輸送に勤しんだ。ポストの形状活かしながら郵便電車をデフォルメしてうまく制作している。
レールと車輪は本物だ。
レールと車輪は本物だ。
細部のパーツにも拘りがあって郵便ポストであることを忘れてしまう。
細部のパーツにも拘りがあって郵便ポストであることを忘れてしまう。
山手線と品鶴線の0キロポストのレプリカ。品鶴線は品川〜西大井〜鶴見を結ぶ路線で、貨物線用線であったものを現在は横須賀線の電車が走っている。
山手線と品鶴線の0キロポストのレプリカ。品鶴線は品川〜西大井〜鶴見を結ぶ路線で、貨物線用線であったものを現在は横須賀線の電車が走っている。
実際の山手線0キロポストは内回りホームにある。山手線は1885年(明治18)に開通した日本鉄道品川線(品川~赤羽間)がルーツで、現在も品川駅が起点となっている。
実際の山手線0キロポストは内回りホームにある。山手線は1885年(明治18)に開通した日本鉄道品川線(品川~赤羽間)がルーツで、現在も品川駅が起点となっている。

本開業の起点駅となった新橋駅へ

いよいよ、本開業した起点駅の新橋駅へ向かいます。「新橋駅」といっても現在山手線が停車する新橋駅ではなく、汐留に位置していました。初代駅舎は横浜駅と同じ構造で、イギリス系アメリカ人のリチャード・ブリジェンスが設計。左右対称の石造り駅舎は関東大震災で被災してしまいました。実は私の曽祖父(明治後期生まれ)は初代駅舎を記憶していて、私が小さい頃「立派な石造りだった」と話してくれました。

幸いにも現在は「旧新橋停車場」として外観が再現された駅舎が汐留シオサイトの高層ビルに囲まれて存在します。確かに左右対称の石造りですね。中心部は平屋の木造建てで、これも当時のとおり外観を再現しています。どことなく全体像はアメリカっぽい雰囲気がします。現代の駅舎に慣れていると、日本初の駅舎はコンパクトなんですね。

建物外観が再現された「旧新橋停車場」。左右対称の二階建て、中心部は平屋建てで、木造建築に石を張り付ける「木骨石張り」という建築技法であった。再現とはいえ、現代の高層ビルと対比し新旧の建築物が観察できるのは興味深い。
建物外観が再現された「旧新橋停車場」。左右対称の二階建て、中心部は平屋建てで、木造建築に石を張り付ける「木骨石張り」という建築技法であった。再現とはいえ、現代の高層ビルと対比し新旧の建築物が観察できるのは興味深い。
駅舎玄関には発掘されたときの遺構も見ることができる。説明版の古写真は開業当時のもの。
駅舎玄関には発掘されたときの遺構も見ることができる。説明版の古写真は開業当時のもの。
住所:東京都港区東新橋1-5-3/営業時間:10:00~17:00(最終入館16:45分)/定休日:月(祝の場合は翌)/アクセス:JR・地下鉄・ゆりかもめ新橋駅から徒歩5分

駅舎が再建されたのは2003年(平成15)のこと。正確な位置に再建できたのは、土中に開業時の施設の基礎が埋まっていたからです。なぜ埋まっていたのか、歴史を遡ります。

初代新橋駅は開業から数十年間起点駅として活躍しましたが、明治中頃に政府は都市計画「東京市区改正条例」を発表。新橋〜上野間の市街地高架線路建設と中央停車場が計画されました。計画のもと、1910年(明治43)に浜離宮の南側から高架線路が分岐。中央停車場となる東京駅が開業します。

すると、初代新橋駅は脇役となって汐留駅へ改称。貨物駅になりました。高架線路には既に烏森(からすもり)駅が開業しており、烏森を2代目新橋駅へと改称して今に至っています。新橋の場所が違うのはこの経緯のためです。横浜も新橋も、発祥の地から駅が移動したのです。あ、品川も厳密には移動しているのか。

筆者が空撮した写真から。北側より撮影。初代新橋駅は汐留シオサイトにあった。左右対称の復元駅舎がビルの下に見える。初代駅の場所は浜離宮の北側、龍野藩、仙台藩、会津藩の大名屋敷跡跡地だった。汐留は江戸時代、江戸湾(=東京湾)の海岸の砂州を大名屋敷へと埋立て造成し鉄道用地へ転用したのだ。写真右は市街高架線路となった現在線と新橋駅。2012年10月2日撮影。
筆者が空撮した写真から。北側より撮影。初代新橋駅は汐留シオサイトにあった。左右対称の復元駅舎がビルの下に見える。初代駅の場所は浜離宮の北側、龍野藩、仙台藩、会津藩の大名屋敷跡跡地だった。汐留は江戸時代、江戸湾(=東京湾)の海岸の砂州を大名屋敷へと埋立て造成し鉄道用地へ転用したのだ。写真右は市街高架線路となった現在線と新橋駅。2012年10月2日撮影。

やがて汐留貨物駅は東京を担う巨大貨物操車場となって、初代新橋駅施設群は埋められました。忘れられた施設の基礎は、貨物駅廃止後の再開発事業で発掘され、開通当時の規模と詳細が判明しました。そのおかげで発掘された遺構の一部も見られ、150年前の開業当時を偲ぶことができます。

発掘調査された面積1824平方メートル分は「旧新橋停車場跡」として保存された。ホーム部分の一部も見ることができる。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」内にも駅舎の基礎部分が露出展示しており見学可能だ。
発掘調査された面積1824平方メートル分は「旧新橋停車場跡」として保存された。ホーム部分の一部も見ることができる。「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」内にも駅舎の基礎部分が露出展示しており見学可能だ。
国の史跡になっている鉄道創設起点跡の0哩(マイル)ポスト。0「キロ」ポストではなく0「マイル」ポスト。1872年はマイルを使用していた。
国の史跡になっている鉄道創設起点跡の0哩(マイル)ポスト。0「キロ」ポストではなく0「マイル」ポスト。1872年はマイルを使用していた。
双頭レールモニュメント。
双頭レールモニュメント。

黎明期の高架線路と幻のターミナル駅跡を観察

新橋駅で述べた新橋〜上野間の市街地高架線路は、山手線・京浜東北線の線路として現役です。新橋や有楽町でレンガアーチが連続しているのがそれです。

高架線というとコンクリート橋を連想しますが、黎明期はレンガ製か鋼鉄桁でした。鋼鉄桁は輸入と錆止めメンテナンスのコストがかかるため、レンガ積みになったのです。市街地高架線はベルリンの高架線路を模し、ドイツ人技術者ルムシュッテルが連続レンガアーチを計画しました。

普段何気なく利用している山手線を支えているのは、1910年から112年経過した高架橋なのですね。地盤沈下もせず、関東大震災や戦災にも耐え、様々な種類の電車を支えてきたのです。レンガって頑丈なのだなと感心させられます。建設時にはレンガ積み作業の個数制限を設けて丁寧に造り上げたとのこと。その丁寧な作業があってこそ、災害を乗り越えて安心できる高架線路があるのです。

レンガの意匠を眺めながら「レトロで手が込んでいる」と感心するけれども、積み方そのものに手が込まれているのですね。レンガ一つ一つをじっくり見ることなどないので、いい機会だから観察してみます。傍から見たら、高架橋を見つめるちょっと変な人ですが……。

ここでちょっと寄り道。レンガ高架線路は神田駅~御茶ノ水駅間の中央線にもあって、この区間には万世橋駅という中央線の起点駅がありました。JR秋葉原駅電気街口から約4分ほど歩いたあたり。1912年(明治45)に開業、1943年(昭和18)休止後に廃止。今となっては幻のターミナル駅で、レンガ高架橋の上にホームがある高架駅でした。

神田川沿いにあった万世橋駅。レンガアーチ高架橋が名残だ。万世橋駅開業時は神田まで線路が延伸していなかった。その後神田までの延伸、秋葉原駅開業などで利用客が落ち込み、最終的には戦時中に事実上の廃止となった。
神田川沿いにあった万世橋駅。レンガアーチ高架橋が名残だ。万世橋駅開業時は神田まで線路が延伸していなかった。その後神田までの延伸、秋葉原駅開業などで利用客が落ち込み、最終的には戦時中に事実上の廃止となった。
いつのころに掲示されたのか「万世橋架道橋」の表記が残る。
いつのころに掲示されたのか「万世橋架道橋」の表記が残る。
高架橋は商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として活用されている。
高架橋は商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として活用されている。
万世橋は神田川に架かる橋名だ。
万世橋は神田川に架かる橋名だ。
レンガ高架橋には西洋建築にある意匠が施され、重厚感だけでなく華麗な演出もされている。
レンガ高架橋には西洋建築にある意匠が施され、重厚感だけでなく華麗な演出もされている。
駅舎は東京駅舎を設計した辰野金吾事務所が手掛け、華麗な赤レンガ建物であった。しかし関東大震災により被災。昭和になり解体されて交通博物館の建物基礎となる。
駅舎は東京駅舎を設計した辰野金吾事務所が手掛け、華麗な赤レンガ建物であった。しかし関東大震災により被災。昭和になり解体されて交通博物館の建物基礎となる。
交通博物館解体後に現れた万世橋駅舎の基礎部分がこうして保存されている。
交通博物館解体後に現れた万世橋駅舎の基礎部分がこうして保存されている。

高架ホームは基礎部分が残され、中央線から見える謎の物体となっていました。駅舎跡地は長らく交通博物館建物となり、私も目を輝かせて通いつめる施設でした。ああ、あの頃が懐かしい。交通博物館内1階の信号機展示の傍らにはジュースの自販機があって、そこが階段を数段上がった変なところにあったのですが、その階段こそが万世橋駅の名残で、ホームに上がる階段だったのです。

住所:東京都千代田区神田須田町1-25-4/営業時間:ショップ=11:00~20:00(店舗により異なる場合あり) レストラン・カフェ=11:00~23:00(日・祝は~21:00) 1912階段・1935階段・プラットホーム=11:00~22:00(日・祝は~20:30) オープンデッキ:11:00~22:30(日・祝は~20:30)/定休日:無/アクセス:JR秋葉原駅電気街口から徒歩4分、つくばエクスプレス秋葉原駅A1出口から徒歩5分、地下鉄日比谷線秋葉原駅3番出口から徒歩6分
住所:東京都千代田区神田須田町1-25-4 マーチエキュート神田万世橋内/営業時間:11:00〜22:00(日・祝は〜20:30)/アクセス:JR・地下鉄・つくばエクスプレス秋葉原駅から徒歩4分
「1935階段」と銘打った階段は1935年製。
「1935階段」と銘打った階段は1935年製。
こちらは「1912階段」。1912年の開業時からある階段だ。交通博物館の自販機階段はたしかここだった。
こちらは「1912階段」。1912年の開業時からある階段だ。交通博物館の自販機階段はたしかここだった。
1912階段の脇には凝った意匠もあって、中央線起点のターミナル駅であった威厳を感じられる。
1912階段の脇には凝った意匠もあって、中央線起点のターミナル駅であった威厳を感じられる。
1935階段の高架内部踊り場は橋になっている。現役時代は下側に駅施設があったのだろう。
1935階段の高架内部踊り場は橋になっている。現役時代は下側に駅施設があったのだろう。
1935階段を上がると旧ホームに上がれる。展望施設となり電車が行きかう姿が見られる。東京行き中央線と左奥に外濠橋を渡る京浜東北線が見える。
1935階段を上がると旧ホームに上がれる。展望施設となり電車が行きかう姿が見られる。東京行き中央線と左奥に外濠橋を渡る京浜東北線が見える。

交通博物館が『鉄道博物館』として大宮へ移転し、跡地は商業施設「マーチエキュート神田万世橋」となりました。あの階段はというと、誰でも行き来しながら万世橋駅の時代に触れられる空間となりました。旧施設を閉鎖せずうまく活用しているのは嬉しいです。幻のターミナル駅の残り香を感じられるのですから。

昌平橋から万世橋駅への高架橋には1904年製ドイツハーコート社製の鋼鉄桁が使用されている。
昌平橋から万世橋駅への高架橋には1904年製ドイツハーコート社製の鋼鉄桁が使用されている。
この橋梁は118年間も電車を支えている。
この橋梁は118年間も電車を支えている。

鉄道開業の歴史を感じられるのは施設だけではない。日本の鉄道の父に会う

さて、日本初の鉄道に関する足跡は施設モノだけではありません。東京駅へ移動します。丸の内駅舎ではなく、その駅舎を眺めている井上勝の銅像です。井上勝は「日本の鉄道の父」と呼ばれ、日本初の鉄道敷設の推進と発展に寄与しました。

井上勝の銅像は東京駅丸の内駅前広場の隅っこにある。ちょっと目立たないが写真左手の信号付近に像がある。
井上勝の銅像は東京駅丸の内駅前広場の隅っこにある。ちょっと目立たないが写真左手の信号付近に像がある。

江戸末期は長州藩の藩士・野村弥吉という名で、長州五傑の一人として英国へ密航。ロンドンにて鉱山技術と鉄道技術を学びながら鉱夫にもなり、明治初年に帰国後に井上勝と改名。鉱山頭兼鉄道頭となって鉄道事業に関わりました。井上勝は鉄道建設反対派との交渉、妥当な建設見積りの算出、現場での指揮、日本人鉄道技術者の育成など、鉄道の発展に情熱を捧げました。

銅像は大正時代に建立されたが戦時中の鉄材供出により撤去。戦後に再建されるも工事などで移動を繰り返し、駅前広場整備後に現在位置へ設置された
銅像は大正時代に建立されたが戦時中の鉄材供出により撤去。戦後に再建されるも工事などで移動を繰り返し、駅前広場整備後に現在位置へ設置された
土台が高いせいなのか「誰なんだろう?」と、若い人もお年寄りも仰ぎ見る人が多かった。
土台が高いせいなのか「誰なんだろう?」と、若い人もお年寄りも仰ぎ見る人が多かった。
正面から。「正二位勲一等 子爵 井上勝君像」と書かれている。
正面から。「正二位勲一等 子爵 井上勝君像」と書かれている。

銅像は丸ビルの向かい、東京駅丸の内駅前広場の隅にあります。3mほどの土台の上に、井上勝が直立で東京駅を見つめています。その目線の先には復原された丸の内駅舎、世界に誇る新幹線車両と最新鋭の通勤近郊型車両……。150年の間に進化した姿が写っています。

 

こうして東京・横浜の鉄道遺産を訪ねながら、鉄道開業の歴史に触れてきました。今回のルートは半日で手軽にめぐることができます。旧新橋停車場などじっくり見学できるとこともあるので、丸1日かけて巡りながら、鉄道への思いを馳せるのも楽しいですね。

鉄道開業150年キャンペーン開催!
さらに、2022年4月1日から2023年3月31日まで、JR東日本をはじめとするJRグループでは、2022年10月14日に鉄道開業150年を迎えるにあたり、「鉄道開業150年キャンペーン」を実施します。
日本を縦断するツアーなど150年記念旅行商品が発売されたり、全国のJRの一部の駅(年間計480駅)にデジタルスタンプが設置されるなど、楽しい企画が盛りだくさんのキャンペーンです。こちらもぜひチェックを。

もう1歩足をのばせば、まだまだ気づかない魅力がごろごろしている“東京”。
東京のまちあるき情報と各駅からの情報をお届けします。

取材・文・撮影=吉永陽一