品川宿を発ち江戸御府内へ
翌日。浪士たちが出発する明け方には、雪は数センチにもなっていた。変が起こったのは安政7年(1860)3月3日。旧暦なので、現在の新暦なら3月下旬。江戸(東京)では季節外れの大雪の日といっていいだろう。
曇天で雪はない夏の日の正午過ぎ。まずは出発地となった品川宿に立つ。かつての宿場町は現在の京急線北品川駅~新馬場駅間に、ちょうど線路に平行するように南北に延びている北品川商店街とほぼ一致する。
シャッターにはこんな絵も。
品川宿界隈は海側が明治以降に埋め立てられ、海岸線がかなり遠ざかっている。江戸末期には品川宿のすぐそばまで海が迫っていた。錦絵に描かれているものも、船とともに「海っぺりの宿場町」が見られることが多い。
冒頭の宴が催されたのは、引手茶屋「稲葉屋」の奥座敷。実はその前に、四軒隣の品川宿随一の妓楼「土蔵相模」でも、打合せを兼ねた酒宴があった。そしてここで、関係者一同、脱藩の意志をしたためた願書を記して、襲撃には参加しなかった仲間に託している。
二軒とも、建物は残っていないが古地図から場所はわかっている。いずれも宿場の海側の並びだ。
ちなみに「土蔵相模」は、文久2年(1862)の英国公使館焼き討ち事件でも、高杉晋作や伊藤俊輔(博文)ら長州藩士の集合場所としても利用されている。座敷の障子を開けると目の前の江戸湾に帆船が浮かんでいて、「膳の向こうに安房上総」、つまり遠方には今の房総半島が望めたという。
浪士達も目にしたのかもしれない大イチョウ
品川宿を出ると北へ。しばらくは旧東海道に沿って江戸方面に向かう。その距離は二里(約8km)。JR各線の跨線橋「八ツ山橋」を超えれば第一京浜(国道15号)、数分も歩けば品川駅だ。高輪ゲートウェイ駅を遠望しながらさらに北へ。泉岳寺駅前あたりで、道の右手にこんもり盛り上がった叢が見えてくる。
ここが江戸の南の入口。浪士たちも「いよいよか」と、気が引き締まる思いで通り過ぎていったのではないか。さらに700~800mほど進むと「札の辻」。浪士たちはここを左に折れ、東海道とは別のルートをたどっている。
慶応大学三田キャンパスの脇をかすめるように、細い路地へと入ってゆくと、なんだか絵になる坂道に出くわす。
それほど勾配のきつい坂ではないが、しんしんと降り積もる雪の中、浪士たちは足を滑らせ、手をつきながら登ったという。坂を登りきり、しばらくまっすぐゆくと、丁字路に出る。この左手角に、見上げるような大イチョウがそびえていた。
この一角は現在、「綱町三井倶楽部」の敷地だが、江戸時代には島津家の分家が治めた、佐土原藩の江戸屋敷があった。大イチョウは約50年前に伐採計画があったらしいが、地元民の反対で難を逃れたとか。その際の調査で、樹齢は200年以上と見られている。
50年プラス200年で250年前ということは、1770年前後、確実に江戸時代。薩摩藩邸に存在していた古木と見ていい。もっとも当時はここまで立派ではない若木だったかもしれず。浪士達が、今のように見上げて通り過ぎたか否かは定かではない。
浪士たちは「幸」を祈ったのか
登りの次は下り坂、神明坂だ。ほぼ下りきったところの小山に小さな神社がある。
左脇をすり抜けるように通り過ぎると、古川に架かる中之橋。
この橋の北のたもとでは、アメリカ総領事ハリスの通訳だったオランダ人、ヒュースケンが薩摩藩士に襲撃され命を落としている。万延元年(1861)12月4日。桜田門外の変の約9カ月後のことだ。
橋を渡り、商店街を抜け脇道にそれると、ビルの隙間から東京タワーが見える。もちろん江戸時代にはない光景。目指すはタワーの立つ丘の反対側だ。再び上り。
この道はかつての鎌倉街道だという。道端に『幸(さいわい)稲荷神社』の鳥居が目に入る。応永元年(1394)創建、江戸時代には講談や寄席も行われる、名の知られた古社だった。
元々は「岸之稲荷」だったが、氏子や信者に幸事が引きも切らず、この名で呼ばれるようになったとか。浪士たちはここで手を合わせたのだろうか。彼らにとっての「幸」とは……。いろいろ考えてしまう。
丘を下りきり、左へ折れてしばらく行くと愛宕神社の前に出た。浪士たちはいくつかの班にわかれて出発していたが、ここを前線基地としていた。予定通り六ツ半(午前7時)には、18人の浪士全員が集合。この頃には積雪はさらに増し、下駄で歩くのはかなり大変なほどだったという。
三代将軍家光の呼びかけに応えて馬で駆け上がり激賞された、曲垣平九郎の出世成功譚で知られる。浪士たちも皆、「願掛け」の気持ちで一歩一歩、石段を踏みしめながら登ったのだろうか。
ここまで来れば、桜田門までは歩いて30分もかからない。井伊直弼の登城時刻は五ツ半(午前9時)。残り2時間だ。
待ち伏せの場所、桜田門南の辻へ
愛宕神社から北へ。かつての大名屋敷街、現在の官庁街を抜けると内堀が見え、桜田門前へと到着する。そこから、井伊直弼の暮らす彦根藩上屋敷のあった国会議事堂方面を眺めてみる。
当時は、この場所から屋敷の門がはっきり見えていたという。
江戸城へと登城する大名行列の見学は、江戸庶民にとって娯楽のひとつだった。今、立っている桜田門の南の辻は、その名所。大名の一覧を載せた『武鑑』には大名家ごとの行列の特徴なども記されており、それを片手に見学するスタイルが一般的だった。江戸城周辺には、酒や食べ物を出す屋台も並んでいたという。もっとも事件当日は、雪模様ゆえ、人出はあまりなかったようだ。
浪士たちは、あるものは客のふりをして屋台に紛れ、あるものは建物の影に潜み、じっとその時が来るのを待っていた。やがて遠目に井伊家の門が開くのが見える。大名行列の歩みは遅い。じわじわと近づいてくるのを待つ。
先に立つ供回りの者達をやり過ごす。やがて、傍らに六人の徒士を従えた後方に大名駕籠(かご)が見えてくる。辻番所の陰から、浪士の一人・森五六郎が駕籠へと訴状を差し出すようにして近寄り、間合いを詰めると徒士の一人を一閃。それが合図だった。
短銃が一発轟(とどろ)き、一斉に抜刀した浪士たちが駕籠へ駆け寄る。不意をつかれた井伊家の重臣たちは応戦するも、主君を護ることはあたわず。駕籠に乗ったまま、井伊直弼は絶命。
堀の向こうに桜田門と、それに連なる櫓(やぐら)の白壁と石垣。これがもしや、乱れた駕籠の中から、直弼がこの世で最期に見た光景だったのかもしれない。
変後、浪士たちはどこへ行ったのか
見事、本懐を遂げた浪士たちは、東の日比谷方面へ。いくつかのグループに分かれ、あらかじめ決められていた大名屋敷へと向かう。その目的と意義を自訴するためだ。手負いの者も多く、稲田重蔵は追いかけてきた彦根藩士に斬られ絶命している。
桜田門を後に、堀端を彦根藩上屋敷とは逆方向へたどってゆく。品川宿を出る頃は曇だったが、桜田門に到着した頃からポツポツと来はじめ、しばらくすると傘が必要なぐらいに急変。モヤまで出てきて不穏な雰囲気になってきた。
雨の中、丸ビルをはじめ、高層ビル街になっている丸の内界隈へ。今はもう見る影もないが、この近辺は大名屋敷がいくつも並んでいた場所だ。浪士達は、この近辺で次々と斃れる。あるものは道端で力尽き自害。あるものは駆け込むも傷が深く屋敷内で死亡。本懐を遂げたとはいえ、犠牲はかなりのものだった。
直弼の首を上げた有村次左衛門は、頭部から背中までバッサリと斬られ、着物の背は真っ赤に染まっていたという。近江三上藩屋敷前の辻番所に行くも、番人がその姿に恐怖し、屋敷の中へ逃げ込んだほどだ。
有村は傍らの石に大老の首を据え、短刀で喉を突く。死にきれず介錯を求めるも、遠巻きに見ていた者たちは誰も近寄ろうとしなかった。
雨の中、ビル街から再び堀端へ。近江三上藩屋敷のあった和田倉門前にたどりついた。
かつてはここに渡り櫓がかかっていたという。有村はなかなか死にきれず、やがて直弼の首級とともに戸板に載せられて屋敷内に運ばれるも絶命。享年二十三歳だった。
桜田門外の変は、襲撃の成功場面ばかりが注目されがちだ。フィクションならそこでエンディングにもできるが、現実はその後も淡々と続く。
雨は弱まり、モヤも晴れてきた。有村は満足して死に至ったのか、否か。和田倉門を前に答えのない問いが脳裏に浮かんでは離れなかった。
撮影・文=今泉慎一