異色の経歴を持つシェフによるフレンチビストロ

テーブルや床は、オープン前にシェフの真中さんが自ら作った。

『ビストロ さて』が西荻窪駅南通りにオープンしたのは1984年4月8日のこと。シェフの真中直樹さんはサラリーマンや日本語教師を経て、20代後半でフランス料理の世界に入ったという異色の経歴の持ち主だ。

なぜフランス料理を?と尋ねると、フランスが好きだからと答えが返ってきた。学生時代から学んできたフランス語を操り、店を開いてからも何年かに一度、フランスにひと月ほど滞在しては現地のフランス人が食べる料理に触れてきた。

壁にかけられた写真は真中さんがフランスで撮影したもの。

真中さんは1人で店を開いた。店の内装、特に床やテーブルは友人に協力してもらいながら自ら手がけ、仕上げは大工さんに頼んだのだという。

1998年に結婚してからは、さてママこと妻のひかるさんが接客と盛り付けを担当している。2人は共通して植物好きでもある。店の窓辺やテーブルに植物が置かれ、高原にある小さなレストランのような雰囲気も『ビストロ さて』の魅力の一つだ。

自慢のデミグラスソースはランチでも

ディナーは予約制でタンシチューや牛頰肉の赤ワイン煮込みなど煮込み料理がメイン。特に心血を注ぐのはソース作り。フォンドボーから仕込んで仕上げるデミグラスソースや赤ワインのソースは自慢の味だ。

予約不要のランチはハンバーグやロールキャベツなど、洋食を代表する定番メニュー4種類と、明太子のオムレツやハヤシライスといった本日の気まぐれランチが1250円。そして仕入れ先の肉屋が値付けを心配するほどいい肉を使っている和牛サーロインステーキが4980円というラインナップだ。

びっくりする柔らかさのチキンチーズカツはライス付きで1250円。

中でも毎回それしか食べないなじみの客もいるという人気メニューがチキンチーズカツだ。もも肉を使ったチキンチーズカツは、不思議なほど柔らかい。ナイフで切っても、切った肉を口に入れても、鶏肉とはこんなにも柔らかく火が通るものだったのか、と思わされる。肉を噛む回数さえ少なくて済むせいか、あっという間に食べ終わってしまうが、それが惜しい旨さだ。

柔らかな仕上がりにはどんな秘密があるのかと思えば「何も特別なことはしていないよ。当たり前にやるべきことをやっているだけ」とシェフはふふっと笑う。さてママも「最期の晩餐はチキンチーズカツがいいなと思っている」と包み込むような笑顔で話す。

チキンチーズカツは一度揚げてからチーズをのせてオーブンに入れている。チーズがとろけるだけでなく、余分な油が落ちる。これがチキンチーズカツおいしさの秘密、その1に違いない。おかげで満足感はあるのに、揚げ物特有のずっしり感がない。女性の年配客もぺろりと食べてしまうという。

チキンチーズカツにもかけている店自慢のデミグラスソースは、さらりとして、ほどよく酸味があって上品だ。これがおいしさの秘密、その2だろう。手を抜かないシェフのことだから、他にも秘密はいろいろありそうだ。

特製ドレッシングは1本600円でテイクアウトできる。

付け合わせの野菜は、さてママが盛り付けている。結婚前はクラフト作家として活躍していたさてママ。立体的な盛り付けにそのセンスを覗かせる。

そして、野菜に合わせる『ビストロ さて』のドレッシングは評判がよく、テイクアウトもできる。にんじん、セロリ、玉ねぎを入れたヴィネグレットソース、いわゆるフレンチドレッシングだが「食べ飽きない」とか「子供たちもこれがあれば野菜を食べる」とか言われて、レシピを公開しているほどだ。

ランチはコーヒーが220円、デザートが330円でセットに出来る。カラメルプリンは、苦味が特徴のカラメルアイス付き。

ランチにはデザートが常時3種類用意されている。季節のアイスクリームと温かいチョコレートケーキ、そしてカラメルプリンだ。カラメルプリンは、開店間もない時期からあるメニューだが、こういう硬いプリンがまた最近流行っているのだから世の中分からないものだ。砂糖控えめのプリンの上には苦味がしっかりしたカラメルアイスがのっている。他にはない苦味が気に入って、アイスだけ食べたいと口走るお客さんも結構いるらしい。

シェフとママの絶妙なコンビネーションが作るくつろげる店

オープンして以来、この店では便利な道具を置いていない。厨房が狭いからと食洗機や電子レンジさえない。

シェフが「フランス料理はすごく手がかかって面倒なんだけどね」と言うと、隣で聞いていたさてママは「ちょっとは楽をしたら?っていうんだけど」とにこにこ。

厨房の中でも2人は息ぴったり。シェフが「ドレッシングかけていいよ」と声をかけ、さてママが盛り付けた野菜にドレッシングをかける。シェフがお皿にメインを盛り付けると、自慢のデミグラスソースでさてママが皿を彩る。広くない厨房は、おいしい料理だけでなく絶妙なコンビネーションも生み出しているらしい。

30周年と35周年の記念に作った冊子は各1000円で販売中。それぞれいくつかレシピも載っている。

1984年に店をオープンした時、シェフは自分がいちばん行きたい店を作った。料理がおいしくて、1人でもくつろげる店。それがシェフの理想とする店だ。その気持ちはずっと変わっていない。『ビストロ さて』30周年を記念して作った冊子のコメントにも書かれている。「僕は一度で良いから、『さて』のお客さんになれたらな~、と今日も叶わぬ夢を見るのです。」

シェフの真中直樹さん。フランス語に加えてラテン語も勉強中だ。

シェフは2020年に古希を迎えた。70歳で店はやめようと思っていたが、やめないでほしいというお客さんの声に応えて、2021年からは金土日と週に3日、ランチとディナーの営業を続けている。

住所:東京都杉並区松庵3-31-16-107/営業時間:12:00~14:00LO・18:00~21:30LO
※営業時間は変更の場合あり/定休日:月・火・水・木/アクセス:JR西荻窪駅から徒歩5分

取材・撮影・文=野崎さおり