明治時代に四谷に創業した『坂本屋』
現在はJR・地下鉄四ツ谷駅から徒歩5分、四谷1丁目に店を構える『坂本屋』は、明治30年(1897)に現新宿区立四谷小学校がある四谷2丁目に創業した。
今回お話を伺ったのは、現当主で3代目の坂本純一さんと妻の晴子さん。今では東京を代表するかすてらの老舗として知られる和菓子店『坂本屋』で、かすてらをはじめたのは大正5年(1916)、多才だったと伝わる2代目だ。独学でかすてらの作り方を習得し、『坂本屋』の味を生み出した。
晴子さんが、「ほてい屋さんでも、うちのかすてらを置いていたそうですよ。」と楽しそうに話す。「ほてい屋」は、四谷から新宿へ進出した百貨店だが、昭和初期に伊勢丹に買収されている。「ベーブ・ルースが来日した際にはボールかすてらをつくったという話も伝わっています。」ニューヨーク・ヤンキーズの黄金時代を築いたアメリカのプロ野球選手、ベーブ・ルースが全米選抜チームの一員として来日したのは昭和9年(1934)だ。
「戦争でこの辺一帯焼けまして、今の場所には昭和22年(1947)に移転しました。戦前はかすてらだけを作っていましたが、移転と同時にまた生菓子も作るようになりました。」『坂本屋』のエピソードは歴史とつながっているのだ。
2代目は純一さんが小学校5年生のときに他界してしまったけれど、職人さんが味を守り、3代目の純一さんへとつないだ。
2代目から受け継いだかすてら作り。
『坂本屋』のかすてらの材料は、卵と小麦粉、砂糖、水飴、みりん。これだけだ。材料の仕入れ先もずっと同じ。「信頼できる問屋さんから最高の材料を仕入れて毎日丁寧に作る。大量には作らない。添加物は入れない。」晴子さんが指を折りながら大切にしていることを教えてくれた。
かすてらの作り方は純一さんから伺った。「かすてらは基本的に全卵を泡立てる共立てか、卵白を泡立てる別立てで作ります。全卵は機械でないと泡立てるのは難しい。2代目の頃は機械がなかったので、別立てでした。卵白に少しずつ砂糖を加えて円錐型にピンと立つまで手で泡立てて、卵黄やふるった粉を加えていました。」ミキサーがある現在は、キメの細かい泡が立つ共立て法で作る。「共立てですが、別立てのころと同じ塩梅に仕上げています。製法を変えたのはここだけで、味は変えません。」
かすてら作りに欠かせない、泡切りと呼ばれる気泡を抜く作業をしながら、ガス窯で1時間かけてじっくり焼き上げる。「ガスで焼くと電気よりも風味が強く出るんです。」
純一さんを含めて3人で、一日平均10枚のかすてらを焼き上げる。かすてら1枚で8斤分なので、店頭に並ぶのは一日80斤分だ。
0.5斤から3斤まで、0.5刻みに全6サイズあり、サイズや用途により箱なし、箱入り、桐箱入りが選べる。
『坂本屋』のかすてらといえば、ラップでぴっちりと包み、包装紙でくるりと包まれた箱なしの0.5斤が浮かぶ。一番人気で、同店の顔のような存在だ。「この0.5斤はうちの広報部長です。」と晴子さん。私も店に寄れば必ず自宅用にはこれを買うし、その日誰かと会う予定があれば、その人の分も買う。箱入りだと仰々しいけれど、箱なしだと「このかすてら、すごくおいしいから食べてみて」と気軽に渡せる。
包装紙を開いた瞬間に目に飛び込んでくる半斤のかすてらは、ぬくもりに満ちていて、すごく美味しそうなのだ。
私のような買い方をする人は多いだろう。こうして『坂本屋』のかすてらが広がっていくのだ。
『坂本屋』のかすてらはふんわりしっとり。適度な弾力もあり、底の大粒のザラメのジャリッとした食感を受け止める。甘い香ばしさと卵のまろやかな風味に、この余韻がずっと続けばいいのにと思う。甘さの加減がほどよいので、つい食べ過ぎる。
3代目が得意なわらびもち。
『坂本屋』は、季節の生菓子や焼き菓子も秀逸だ。以前は煉(ね)り切りも作っていて、店舗近くの雙葉小学校の隣にある修道院のシスターが、お茶のお稽古用に求めていくこともあったという。今は和菓子の種類を絞っていて、煉り切りを作ることはない。
人気が高いのはわらび餅。本わらび粉を用いてじっくりねりあげ、滑らかな漉し餡を包み、香ばしいきなこをまぶす。わらび餅にもいろいろあるが、貴重で高価な本わらび粉をつかうものは多くはない。上質な材料を使うわらび餅だけが持つ、涼やかな喉ごしと独特の風味が貴重だ。
「作り手には作っていて楽しい、得意な菓子というものがある。」と晴子さん。純一さんが得意とするのは、わらび餅のように「煉(ね)る」菓子。同様に「煉りあげる」求肥でこし餡を包み、餅米でつくる真引粉をまぶして金沢の『加賀種』のふやきで挟んだ妹背(いもせ)も老舗らしい逸品だ。
四谷で店を営むということ。
同店は地域との関わりも深く、四谷の総鎮守、須賀神社の6月の例大祭では、須賀神社にお供えなどを納め、神輿の担ぎ手の赤飯のおにぎりの注文を受ける。11月の酉の市には、山椒の粉を加えた餅菓子、切山椒を販売し、名物として親しまれてきたが、残念ながら、2016年に店舗を改装した際、店と一体化していた大理石製の石臼を取り壊したため作れなくなった。
晴子さんは、「初代が東京の真ん中に位置する四谷に店を構えたことに改めて感謝。緑の多い学園都市で、迎賓館も近くにある。素晴らしい場所に店を構え、100年を超える歴史の中で、地域との様々なつながりができた。この場所で100年以上続いているということが、大きな自信になっています。」と話す。
「売れるお菓子は毎日違うんですよ。毎日、何が売れるかと楽しみで、予想があたるとやった!と思うんです。」ニコニコしながら、「一日一日を大切に、お客様お一人お一人を大切に、作るのも接客も心をこめて。」最後にまた、指を折りながら大切にしていることを教えてくれた。
取材・文・撮影=原亜樹子(菓子文化研究家)