三茶が誇る、街の精肉店のとんかつ『川善』【三軒茶屋】

ずっと変わらずそこにある、そのこと自体にすら価値がある。入れ替わりの激しい三軒茶屋という街の中心に、今なお精肉店として、そしてその直営とんかつ屋として『川善』はある。とんかつ屋として半世紀、精肉店は75年。これだけの老舗が愛され続けているのは、価格、味、その変わらなさがあってこそだろう。
コロナ禍は本当にしんどかったと言う。店主の前川智弘さんは「10年くらい前に私が店を継いで、5年くらい前にコロナでしょう。それまではこれ以上お客さんが来たらパンクしそうだ、と思うくらいだったのに、それがもうパッタリと」。そんな中でも踏ん張ってこれたからこそ「もうこの店に骨を埋めるつもりですよ」と智弘さんは笑うことができるのだ。
2階のとんかつ屋は智弘さんが、1階の精肉店は兄が切り盛りし、兄弟で営む『川善』は、三軒茶屋の住民たちに今日もおいしいお肉を提供し続けている。
『川善』店舗詳細
この味、この量、この人たちであってこそ『とんかつの店 みのや』【東十条】

昭和3年(1928)生まれの初代・原源造さんは岐阜の生まれ。「みのや」の「みの」は「美濃」である。新橋の精肉店兼レストランで修業を重ね、1960年にこの地で独立。以来65年、東十条で営業を続けてきた。
現在の店主、2代目の敏郎さんの代になる以前から量が多い。近所に住む現役のプロレスラーも贔屓(ひいき)にするというのにも驚くが「常連さんはこれがいいんだって言うんだよね」と、敏郎さんは笑う。豚汁に細かく刻まれたキャベツが入るのも先代の頃からの特徴だ。
このとんかつは、原家の縁をつなぎ留め続けている。初代を頼って上京したその弟たちは各地に『みのや』というとんかつ屋を開業し、敏郎さんの息子も大塚で『とんかつ 美濃屋』を営んでいる。原家の縁は店によってつながり、地元の縁はその味、その量によって紡がれる。一つの場所で長く続けてきたからこそ、とんかつが今も人々を結びつけてくれている。
『とんかつの店 みのや』店舗詳細
街は変われども、地元の味であり続ける『とんかつ藤芳 本店』【浅草橋】

そのとんかつ同様に、店のたたずまいも端正だ。丈の短いのれんはシンプルで、中央の家紋が美しい。再開発の影響で、2年前に店舗が新しくなったが、創業は1987年。おかず横丁の精肉店に生まれた初代の遠藤正宏さんは、妻の芳江さんから店名を取り独立した。遠「藤芳」江、というわけだ。その息子、現店主の猛さんは、独自に煮豚を使ったトロとろかつ、バラ肉のバラかつを開発。特にトロとろかつは揚げる前にひと手間かけた評判の一品だ。
近年、大通りには巨大なオフィスビルが立ち、昼のとんかつ需要はもっぱらサラリーマンたち。夜は昔からの常連に、新しいマンションに住む家族連れも訪れる。配達依頼も多く、猛さん自らバイクで街を走り回っている。
街も店も新しくなったが、初代も当代も地元の生まれ。オリジナルの新メニューがあり、昔からのとんかつ定食がある。両輪あってこそ、町のとんかつ屋は成り立っているのだ。
『とんかつ藤芳 本店』店舗詳細
名店直系のとんかつは、潮風に吹かれて『とんかつ和紀』【流通センター】

大田市場の目と鼻の先、『とんかつ和紀』が入居するビルの眼の前には京浜運河が広がり、上空には羽田に向かう飛行機たち。1992年にここに店を構えた先代は、目黒の名店『とんかつ 大宝』の創業者だ。その息子、現在の店主である石川太(はじめ)さんが店を継いだのは5年前。時はコロナ禍の真っ只中だったが、客入りの少なかった時間の営業をやめ、試行錯誤の時間が取れたのが不幸中の幸いだった。
なんとか軌道にのった店は市場と周辺の企業に密着した営業スタイルで、弁当の配達が生命線。朝5時から仕込み始め、店の営業が始まる11時には大体の配達が終わり、そこからやっと開店だ。
近所には東京港野鳥公園やつばさ公園があり、普段の街歩きとは違う体験ができるロケーション。土曜にはサイクリストや公園散策の人たちもちらほら。潮風にたなびく「とんかつ」の幟(のぼり)を頼りに、働く人たちのための定食を味わうのもオツなものだ。
『とんかつ和紀』店舗詳細
取材・文=かつとんたろう 撮影=高野尚人
『散歩の達人』2025年5月号より