開業は「世界一周」がきっかけだった
秩父鉄道の長瀞駅から徒歩10分ほど。畑に囲まれたのどかな道を歩いていたら、国道140号線、通称「彩甲斐街道」沿いに大きな古民家が現れる。これが『お豆ふ処 うめだ屋』。“お豆ふ処”とあるだけに、豆腐屋さんが始めたカフェなのでは? てっきりそう思っていたが、店主の田中仁さんに聞いたところ予想外の答えが返ってきた。
かつて田中さんが31歳、奥様のさおりさんが26歳の時に仕事を辞め、2年間の世界旅行に出かけたそう。旅のゴールは「旅行が終わった時に、お気に入りの素敵な国で何かをする」。やがて南米を回っているとき、日本人入植地で手作り豆腐に出合い、これを商売にしたら面白いかも……と思ったのがきっかけなのだそう。
帰国したら紅葉の時期。長瀞の光景の美しさに、この場所での開店を決めたという。
ランチメニューは「おとうふランチ」1種類のみ。春夏秋冬で内容は変わるが、メインがお豆腐という点は共通。「“出来立て豆腐が食べられるお店”なので、朝作った豆腐をお客様に提供する前に盛り付けて出しています」と田中さん。ランチが運ばれてくるまで、しばし店内で待機。
この店では食事はもちろん、その空間も大きな魅力を持つ。明治42年(1909)に建てられた築110年超えの建物は、もともと養蚕農家の建物だったとか。秩父地方と言えばかつて養蚕で栄えた土地、その歴史が詰まっているというわけだ。
人の暮らした記憶と気配が建物に刻まれているせいだろうか、なんだか見知った場所のようにリラックスしてしまう。なんだろう、この感覚……と考えていたら、お店について「“田舎のおばあちゃんの家”みたいにしたいなと」と田中さん。そう、それだ! と合点がいく。
実際に田舎に親戚がいるかどうかはこの際関係ない、日本人のDNAに刻み込まれているのではと思えるくらい、郷愁に訴えかけてくる「田舎のおばあちゃんち」感。畳でゴロゴロして、お茶飲みながらダラダラ話をして、縁側で日向ぼっこをしたい。そんな、もはやファンタジーにも近い場所がここにはあった。
今の店からは想像もつかないが、田中さん夫婦がこの家を購入したときは10年以上誰も住んでいなかった状態だった。「まるで幽霊屋敷のようで、すごく散らかっていたし、建物も傷んでいました」。それを半年かけて修復したという、その情熱もすごい。机の上の小物を眺めたり、店内にある雑貨屋を見ていたら、待ち時間もあっという間だ。
湯豆腐からスイーツまで。いろいろな形で美味しさを楽しむ
さて、ランチが到着。この日は「冬のおとうふランチ」、メインは豆乳湯豆腐。お店おすすめの食べ方にのっとり、まずはそのまま一口。あたたかい豆腐が、するっと口の中に入りふわりと広がる。豆の風味はしっかりするけれど“豆くささ”はない、とても優しい味。ちなみに春〜秋はメインがおぼろ豆腐となる。
続いて藻塩をかけて一口、今度はお醤油をかけて一口……と、合わせるものによって変わっていくお豆腐の風味を楽しんでいるうちに、あっという間にお豆腐が消えてゆく。添えられた茸と油揚げの炊き込みごはん、湯葉、総菜三品……すべてが丁寧に作られ、しみじみとおいしい。ちなみに添えられた藻塩は長崎県五島にある矢堅目の塩本舗のものとか。シンプルなメニューだが、一つ一つに込められたこだわりがこの味を生んでいるのだろう。
デザートとドリンクをそれぞれ260円でプラスできるとのこと。せっかくなので豆乳ラテとお豆腐プリンをいただく。にがりを使って固めたというお豆腐プリンは、最初の一口は「豆腐?」と思うも、やがてプリンのように感じられていく不思議な味。トッピングされたあんことの組み合わせが、これまたおいしい。
おみやげにぴったりなドーナツやクッキーも
ちなみに建物の一角には、売店も併設。こちらでは「おからドーナツ」「おからクッキー」を購入することができる。国産小麦に北海道産甜菜糖、鹿児島県産粗糖、卵は深谷の田中農場のものを使用しているとか。ランチやカフェで楽しんだあと、おみやげに購入する人も多い。
「『少し練習で……』と軽い気持ちで始めた豆腐屋が、もう10年以上たってしまいました」と田中さん夫妻。個人的にはもう海外には行かず、このまま多くの人にとっての「おばあちゃん家」であり続けてほしいと思う。
季節の移ろいとともに「久しぶりにまた行ってみたいな」と思わせてくれる、そんな店だ。
構成=フリート 取材・文・撮影=川口有紀