『東京行進曲』『銀座の柳』(1930年ごろ)
関東大震災後、銀座に植えられたのは柳ではなかった
「そういえば、この街には柳があったよなぁ」
『東京行進曲』を聴いて、人々は震災後の銀座に欠けていたものを思いだした。
この曲は、昭和4年(1929)5月に公開された映画『東京行進曲』の主題歌(歌:佐藤千夜子)。映画の舞台は震災から復興した東京、銀座の街並みも随所にでてくる。店々のショーウィンドー、カフェーやダンスホール、掘割の水に映えるネオン。街はかつての輝きを取り戻している。オシャレなモボ・モガたちも戻ってきた。しかし、何かが足りない……そう、震災前の銀座には柳の木があったはず。
銀座通りに日本初の街路樹が整備されたのは、明治7年(1874)のことだった。最初は松、カエデ、桜が植えられたのだが、すぐに立ち枯れてしまう。銀座は四方を堀川に囲まれた湿地、水が多すぎると普通の木々は育たない。
そこで、水や湿気に強い柳に植え替えた。考えてみれば、江戸の街には昔から柳があふれていた。八百八町はどこも、銀座と似たような湿地帯なだけに、最初から柳で良かった気もする。洋風の建造物群に、いかにも和風な柳並木では似合わないという判断か?
しかし植えてみると、意外と違和感なく煉瓦造りの街並みに馴染む。昔から江戸庶民は見慣れていた。また、柳にはどこか儚げで影が薄い。存在感のない地味なモブキャラ。あろうがなかろうが、気にはならない。
震災以前、銀座の柳が流行歌で歌われることはなかった。空気のような存在だったのかもしれない。それが失われた時に、かけがえのないものだったことに気がつく。
『東京行進曲』は、最終的に25万枚のセールスを記録した。レコード売上記録を更新する空前の大ヒット。歌が流行るほどに、柳並木を懐かしむ声は大きくなる。その声に押されて、地元商店会や新聞社から900本の柳を寄贈され、京橋〜新橋間と日比谷〜築地間の歩道に植えられた。
昭和7年(1932)3月には、銀座柳復活祭が催される。この時に『銀座の柳』も発表された。
『東京行進曲』と同じ西條八十と中山晋平のコンビ(歌:四家文子)が、柳並木を再び目にする喜びを歌にしている。パリのマロニエ、銀座の柳。同年に完成した服部時計店本社ビル(現・和光)の時計台とともに、かつて地味なモブキャラだった柳が、銀座の象徴的存在になってゆく。
『東京ラプソディ』(1936年)
待ち合わせの恋人たちが銀座の柳の下で見たものは?
昭和11年(1936)には、藤山一郎が華やかなハイバリトンを響かせ歌う『東京ラプソディ』が大ヒット。この頃になると、銀座の柳の下で待ち合わせする男女の姿が目立つようになる。それを見て歌詞にしたのか、それとも、人々が歌詞を真似たのか? そこのところは分からないのだが。
大正期のモダンガールやモダンボーイが、カップルで銀座を歩くことは意外と少なかった。奇抜な服装をしていても貞操観念は当時の常識から逸脱せず、未婚の男女がデートするのはかなり稀だった。
時が過ぎれば柳の下を歩く人々の意識も変わる。職業婦人の数は大正末期の35万人から急増し、この頃には100万人を越えていた。経済的に自立した女性たちは、誰に遠慮することもなく恋を楽しむようになる。
「四丁目交差点から5本目の柳の木の下で」
などと、携帯電話どころか公衆電話も少ない時代、正確な待ち合わせ場所を決める時にも、柳は便利な目印だった。柳並木の本数を数えながら待ち合わせ場所へとそぞろ歩く、そんな都会的な恋を描いた映画も多い。
「銀座ってすげぇ」
封建的な地方で暮らす若者たちは、歌や映画でしか知らない銀座に幻想を抱く。そこへ行けば、自分もオシャレな自由恋愛が楽しめるかも、と。
当時の銀座には、そんな者たちを受け入れる柔軟性があった。通りには露店が並んでいる。銀座三丁目から八丁目までの銀座通り晴海通りは、食物や雑貨を売る露店が通りを埋め尽くされていた。汐留川の川岸にも古本の露店が集まり、まるで古書街のようだったという。最盛期には銀座全体で約1600が出店していた。
一流品が並ぶ老舗店のウィンドーから、目を歩道側に向ければ……そこには、雑多な品々を売る露店がならぶ。店舗のガラスドアを開けるのに腰が引ける田舎者でも、露店ならば気軽に品物を物色できる。銀座慣れした若者たちも、お洒落なティールームを頻繁に利用できるほど、懐具合には余裕がない。露店で売られるジャンクフードは“銀ブラ”に欠かせないものだった。
『東京ラプソディ』歌詞にある、柳の下で恋人の待ちつづける男の目に映っていたのは、そんな屋台街の情景だったのかもしれない。浅草・浅草寺門前、あるいは、香港の男人街や女人街のような。この頃、銀座の柳の下は猥雑な活気にあふれていた。
『夢淡き東京』(1947年)
占領下の“銀座租界”には空があった けど……やっぱり、柳が愛しく懐かしい
昭和22年(1947)に『夢淡き東京』(歌:藤山一郎)が流行った頃の銀座には、空が広がっていた。
京橋から銀座六丁目にかけては、大半の建造物が空襲で焼失している。三十間堀の周辺には、焼け野原を開墾した田畑が広がっていた。銀座通りには再開された店舗も増えてきたが、粗末な平屋や2階建てのバラックの臨時店舗ばかり。その低い屋根の上には、聖路加病院の十字架を掲げた尖塔が見える。終戦直後の一時期だけ、銀座のランドマークとして存在した眺めだ。
服部時計店本館をはじめ、戦災を生き残った数少ない建物は連合国軍に接収され、PX(兵士用の売店)や慰安施設として使われている。銀座通りには「Ginza St.」、みゆき通りは「Annex Ave.」などと、英語表記に変えられた街路の看板が目立つ。
柳並木も焼夷弾に焼き尽くされた。そのぶん広くなった歩道には、酔っぱらいの米兵とパンパンカールの嬌声が響く。
「あそこは、俺たちの場所だったよなぁ」
柳の木の下で愛を語らった日々は、遠い昔。敗戦国の悲哀を感じさせる眺めに、銀ブラも昔のように心躍らない。
『夢淡き東京』の歌詞にある「柳青める」は、昔から俳句で使われてきた季語。芭蕉や蕪村、啄木も、青々と芽吹く柳から春を表現する言葉として使ってきた。そこには、楽しかった春の日々を懐かしむ思いが滲む。
「そうだよ。銀座には柳が必要だ」
歌がまた人々の心を動かしたのだろうか? 『夢淡き東京』の発売から1年が過ぎた昭和23年(1923)になると、銀座通商店会が焼失した柳の補植を開始する。
『銀座の恋の物語』『二人の銀座』(1960年代)
儚げな柳から煌めくネオンへ 銀座の恋の背景は変遷する
日本が主権を回復した昭和26〜27年頃になると、銀座通にも柳並木が復活していた。バラックは高層の建造物に建て替えられて、裏筋にも建物が隙間なく密集するようになる。聖路加の尖塔はもう見えない。
通りを埋め尽くしていた露店も、昭和24年(1949)に占領軍の命令により撤去されている。露店がなくなり、歩道は広く垢抜けた感じに。柳の葉も陽光に映えて、いっそう存在感も際立つ……はずが、銀座を歌った歌謡曲から「柳」の文字が消えてしまう。
昭和27年(1952)には晴海通り沿いに世界最大の地球儀ネオンが完成し、四丁目交差点の三菱ドリームセンターの円筒形ネオンと光量を競っている。当時、民放テレビ局の終了間際には、そんな銀座の夜景が映されていた。真っ暗闇な夜に鬱屈する地方の人々は、ネオン煌めく夜を羨望した。映像文化の発展が、銀座への憧れをかきたてる。
映画全盛期の昭和30年代から40年代にかけても、銀座を舞台にした恋愛映画が多く制作されている。スクリーンに映る男女の背景も柳並木ではなく、煌めくネオンだった。
この頃になると、衰弱して枯死する柳が増えてくる。掘割に囲まれた湿地帯だった銀座も、東京オリンピック開催が決まってから大変貌を遂げた。掘を埋めて首都高速道路が通され、排気ガスが街に充満する。環境の激変に儚げな柳たちは耐えられなかった。
立ち枯れた木々は、若い恋人たちに似合わない。映画の主題歌としてヒットした『銀座の恋の物語』(石原裕次郎と牧村旬子)や『二人の銀座』(オリジナルはベンチャーズ。のちに和泉雅子・山内賢がデュエットでカバー)にも、柳はでてこない。銀座の恋の背景は、青々と茂る柳から、煌めくネオンに変わった。
そして、昭和43年(1968)には銀座通りの改修工事によって、柳の街路樹はすべて撤去されてしまう。しかし、もはや柳を懐かしむ唄が流行ることはない。街路樹は排気ガスに強いポプラやイチイに植えられた。現在は、成長が早く見栄えが良いカツラへの植え替えが進んでいるという。
街路樹の木々がどう変わろうが、いまは誰も違和感を覚えない。気にしていない。
柳並木の消滅とともに、銀座の恋が唄われることもなくなった。東京は膨張をつづけている。宅地は遠い郊外に広がり、人々の住処は銀座から遠のいていった。終電の時間を気にしながらでは、恋のドラマも盛りあがらず。郊外の自宅に帰る私鉄の始発駅がある新宿や渋谷へと、東京の恋の舞台、恋が唄われる街は移ってゆくことになる。
(了)
取材・文・撮影=青山 誠