常連がつないだ街の歴史のリレー
いまは、三代目店主・吉久修平さんが店を受け継いでいる。私と歳もあまりかわらず、40代。緊張せずにお話が聞けた。実は吉久さんももとは、20年通う常連客で、二代目から声を掛けられ店を継いだのだった。ハマの名店を受け継ぐ常連たち。なんと素晴らしい街の歴史のリレーだろうか。こちらは、戦後十年ほどで開業されたようだ。
「はい、昭和31年(1956年)です。最初の10年ほど若葉町で営業していたようです。初代は、進駐軍のためのジャズバンドで、ベーシストをしていたと聞いています。1995年に亡くなり、私はお会いしたことはないんですが」
若葉町は、伊勢佐木町の奥、いまは薄暗い裏町の風情だが、終戦直後の姿はまったく違った。一帯は米軍に接収され、兵舎や航空機の滑走路が作られていた。横浜は、進駐軍のあふれる街だったのだ。おびただしいアメリカ人将兵のために慰安施設ももうけられ、うちジャズクラブでは、多数の日本人ミュージシャンも集った。『ダウンビート』創業者もそのうちの一人だったのだろう。若葉町あたりは、1952年に接収解除されているが、店には米兵たちも遊びに来ていたと伝わっている。
この時代、アメリカのジャズレコードは高級な嗜好品だった。これをおそらく米軍ルートでも仕入れて、若葉町の店でかけ、それは野毛に移ってのちにも保たれ、どころか、今も日々、かけられ続けている。いうなれば、戦後ジャズ史の一端が、今夜もハマで鳴っているわけである。その数、約3500枚、そこに吉久さんが1500枚を追加した。なにも肩肘張らず、これらが聞けるし、のんびりとコーヒーや酒を楽しめる店。だが、神髄はゆるがない。
ひたすら、音楽を心地よく聴かせるために
「お客さんと九割九分話しませんね」
吉久さんはあえてそうしているのだという。こんなことがあった。
ある年配客が数十年通ってきていたが、数えきれないほど顔をあわせていても、たった一度さえ会話らしい会話をしたことがなかったという。それがつい先日、初めて話をした。無口だった老境の彼は、吉久さんに一言こういった。
「実はね、50年前の今日、はじめてここに来たんだよ」
その日だけ、二、三の会話をした。そして以後の来店時は、また無口な人に戻っていった。
客は、音楽を聴いて心がほどけるのを楽しんでいる。やはり語らいをメインにする業態ではないのだ。客から求められない限り、店主はひたすら、音楽を心地よく聴かせるための裏方に徹する。ここは「ジャズ喫茶」なのである。
それでも、「ジャズ喫茶ならではだな」と、私などは思ってしまうお客さんもやはりいらっしゃるそうだ。前編に記した通りの、ウンチクおじさま。
それだけなら店主はじっくり聞いてくれる。だが行き過ぎて、ジャズとはこういうものだという自分の定義を押し付けて、当てはまらないものは否定するような人は、吉久さんが野放しにしない。ちゃんとセーブしてもらう。ほかのビギナーの客も楽しめるように。こういうところに店の入りやすさ、居心地の良さが担保されている。
伝統を受け継ぐ三代目が一番気を付けていることとは、なんだろうか。そこには、まどろっこしいウンチクはなかった。
「とにかく、デカい音を鳴らすこと」
日頃味わえない、全身で音楽を浴びながらコーヒーや酒を楽しむ。半世紀以上、それは変わっていない。難しく考えず、野毛の老舗の音を、ぜひ浴びにきていただきたい。今夜も、私はリクエストした。うーんなににしよう。ドルフィーの「ファイブスポット」で! 吉久さんは、ほほえんだ。
「横田さん、10年前に来たときも、これをリクエストしましたよ」
やっぱり、ビギナーにもやさしい、名店なのである。
取材・文・撮影=フリート横田







