喫茶店の本棚で ~『西荻夫婦』

西荻窪駅の南口から徒歩5分ほどの喫茶店、『JUHA』のモーニングは10~13時。早起きが苦手な人にもやさしい“朝”の楽しみだ。

おいしいコーヒーと、下北沢にあったジャズ喫茶「マサコ」のレシピを受け継ぐあんこトースト。LPでかかる音楽のやわらかさに包まれて、幸せのひととき。

ある日、入り口近くの本棚に、やまだないとさんの漫画『西荻夫婦』を見つけた。

2000年代初めの西荻の風景がたくさん刻まれているこの作品は、当時を知る人にも知らない人にも、親しみと、ささやかな驚きのある名作だ。店主の大場俊輔さん、ゆみさんに聞いてみる。この本はいつからここに?

「この棚の本はだいたい私の本で、開店当時から置いてたと思います。西荻だし、自分たちも夫婦だし、と思って手にとったのかな」(ゆみさん)

「読んだのはだいぶ前です。『どんぐり舎』にも置いてありましたよね」(俊輔さん)

そう、この背表紙がお店の本棚に並んでいるのも、いつからか西荻らしい風景だと感じるようになった。

2010年生まれの『JUHA』も、老舗喫茶がひしめくこの街では新しいお店とも言えるが、今やすっかり西荻というと思い出す場所のひとつになった。最初はみんな新しい。知らぬ間になじんで、街の顔になっていくのがおもしろい。

住所:東京都杉並区西荻南2-25-4/営業時間:10:00~21:00(土・日・祝は~19:00。SNSで事前に要確認)/定休日:月(祝の場合は翌)/アクセス:JR中央線西荻窪駅から徒歩5分
午前中の西荻の街を歩くのは気持ちがいい。高い建物が少なく、日なたが多い。新鮮な日差しをたくさんあびると、健康になった気がする。
午前中の西荻の街を歩くのは気持ちがいい。高い建物が少なく、日なたが多い。新鮮な日差しをたくさんあびると、健康になった気がする。

街の本屋さんで ~『東京を生きる』

西荻に行くと必ず立ち寄る場所のひとつが、11月号では連載「東京商店夫婦」で取材させていただいた『今野書店』だ。

この号の取材をしていた9月、子供の頃から通っていた地元の新刊書店が増税を前に閉店してしまった。“街の本屋さん”の存在、その安心感がいっそう恋しくなっていたある日、ここで不思議な体験をした。

入り口近くの「西荻本」コーナーの前に立つと、すぐ横の壁から視線を感じる。

西荻についての本、西荻ゆかりの作家さんの本が並ぶ西荻本コーナー。
西荻についての本、西荻ゆかりの作家さんの本が並ぶ西荻本コーナー。

「エッセイ・紀行」の棚、視線の主は雨宮まみさんの『東京を生きる』、その黒い背表紙だった。

ドキリとした。ちょうど1年前、西荻での打ち合わせの帰りに『今野書店』に寄ったさい、同じ場所で同じ視線を確かに感じた、その記憶が突然よみがえった。

1年前は、本を手にとりながら、買う勇気が出なかった。あろうことかその後、一度は図書館で借りて読んでしまった。1年の月日がたち、内容を知ってなおその鋭い視線を感じて確信した。

私はこの本を、いつかこの書店で買うだろう。

自分の、本当のことを、削り出すように切り出すように、ギリギリまで満杯になった水を揺さぶるように紡がれた文章を、家の本棚におさめる覚悟ができたら。

古書店での再会 ~『カフカ短篇集』『変身』

女子大通り沿いに今年オープンした『Benchtime books』を初めて訪ねたのは、お盆のころだ。

扉を開けるとすぐに、左手の棚に置かれた本に目が留まった。岩波文庫の『カフカ短篇集』。編訳は池内紀さん。

ドイツ文学者・エッセイストの池内さんは、『散歩の達人』で2017年の春まで続いた「散歩本を散歩する」という連載でご一緒させていただいた。最近どうされているのかな。お元気だろうか。

カフカの短篇をきちんと読んだことがなかったこともあり、この1冊を購入してお店を出た。

池内さんの訃報を聞いたのは、その半月後だった。

連載をまとめた単行本『散歩本を散歩する』のあとがきで、池内さんが書かれた言葉をときどき思い出す。この本は、45冊の本、その書き手の散歩のお伴をするように、池内さんがさまざまな街を歩いた記録だ。

「三年会わなくても、会ったとたんにいつもどおりになる。
その人とともに、その人たちの歩いたところが散歩になった。(中略)

ご主人さまであるが、どなたもとびきりの紳士・淑女なので、指図したり、自慢したり、講釈したりなどなさらない。そもそも姿が見えず、振り返りもせず、トットと先導して、ちょうどいいところで、ハイさようなら。散歩名人は消えどきもよくこころえている」

本を開く。会ったとたんにいつもどおりになる。

この本の編集をしながら、何度も不思議な気持ちになった。幸田文が嫁いだ新川。ニコラ・ブーヴィエが滞在した荒木町。歩いているのは確かに「今」の街なのに、すぐそばに昭和初期の、あるいは昭和30年代の街並み、その人の姿がはっきりと見えた。

 

久しぶりに『Benchtime books』に行くと、同じ棚にカフカの『変身』があった。

前にこのお店でカフカの本を買ったんです、と伝えると、お店にいた高田泰輔さんが「僕がカフカが好きなのでよく置くんです」と教えてくれた。

お店を運営する高田さんと木屋佳子さんは、崩れかけた売りものにならない古い本から活字を拾い、集めた文字で手製本による新しい本、新しい物語を作っている。

さまざまな時代が循環する古書店は、いつでも思いがけない出会いがある。そんな場所が生まれ続ける街は、問答無用で素敵だと思う。

住所:東京都杉並区善福寺1-4-1/営業時間:12:00~19:00/定休日:月・火/アクセス:JR中央線西荻窪駅から徒歩10分

西荻で生まれた西荻の本 ~『西荻カメラ』

さて、最後に一冊の本を紹介しよう。

『西荻夫婦』の作者・やまだないとさんのもうひとつの西荻の本、『西荻カメラ』。

この本は、『散歩の達人』では町中華探検隊の隊長でもおなじみ、北尾トロさんが西荻を拠点に運営していた「杉並北尾堂」から2003年に出版された本だ。現在は版元でも品切れになっており、もしもどこかで偶然見つけたら、ぜひ手に取ってみてほしい。

11月号ではやまだないとさんに『西荻夫婦』についてのお話を伺ったが、最後にこの本についても少し聞いてみた。

「西荻夫婦は夫婦の生活を描いたと言いましたけど、西荻カメラはまさに西荻という街を描いた本です。そして西荻の友人と西荻で作った本です」

西荻でトロさんと知り合い、漫画家さんの本ではめずらしい、ハードカバーの本を作ることになった。理想を詰め込みどんどん豪華仕様になっていったという本は、布張り! 箔押し! 付録付き! と、出版に携わる人間の憧れがつまった宝箱みたいな一冊だ。

「まさか布張りハードカバーで漫画が出せるとは思わなかった。でも結果的に部数は今まで出してた本と変わらなかったんで、丁寧に本を作れてうれしかったです」とないとさん。

『西荻カメラ』のタイトル通り、この本は本当にカメラになっていて、なつかしい日光写真の付録がついている。この機会に、黒い封筒に入ったまま大事に保管していた青焼き用紙を取り出して、満を持して使ってみた。

青焼き用紙を日光カメラにセットする。  ⒸNAITO YAMADA
青焼き用紙を日光カメラにセットする。 ⒸNAITO YAMADA
どうだ!   ⒸNAITO YAMADA
どうだ!  ⒸNAITO YAMADA

………こんな結果です。

どのくらい写ったら正解なのかはよくわからないが、出た出た! と満足してしまった。イラストの背景は、仲通街のピンクの象。

やがて消えてしまう写真を楽しむ。そんな秘密めいた贅沢は、なんとなく西荻の街に似合ってる。

 

取材・文・撮影=渡邉 恵(編集部)