中村正人 著『ガチ中華移民 日本で増殖する「本場中華料理」の謎』(太田出版)
「ガチ中華」の魅力を探求し情報発信を行うコミュニティー「東京ディープチャイナ研究会」の代表、中村正人氏による著書。中村氏は『散歩の達人』2026年11月号「池袋ルネサンス」特集内でも、池袋駅周辺のガチ中華事情について実際に街を歩きながら案内してくれた。自分の認識していた「中華」というものは限られた世界で、この国が広大な多民族国家だったことを思い知らされた。この時に解説された内容は本書の概説のようでもある。本書では池袋だけでなく、日本各地で繰り広げられるガチ中華という現象を、時代、文化、社会情勢など、さまざまな切り口から考察。ガチ中華とはなんなのか、その定義から丁寧に解説していく。もちろん料理としての面白みも充分に紹介されるが、日本社会の変容を可視化する題材としてこれを用いているのがその奥深さ。「さんぽマスター」のための本としては、ローカルとグローバルをさまよう、そんな道程のガイドブックになるに違いない。(小野)
ひらいめぐみ 著『世界味見本帖』(角川春樹事務所)
その手にスーツケースはない。それでも著者は旅するように、ベトナム料理からジョージア料理まで、これまでなじみがなかった料理を食していく。著者は、『転職ばっかりうまくなる』(百万年書房)、『おいしいが聞こえる』(ハルキ文庫)などで知られるひらいめぐみ氏。過去の著作でも触れられているが、著者は食べられないものが多く、偏食気味だ。そんな書き手だからこそ見える心の景色がある。
本書を通して、未知との遭遇を追っているだけでもたいそう引き込まれるのに、それに加え、独特な比喩表現が文章に織り交ぜられたり、過去の記憶と結びついたり、そういった書く上での、そしてどう読まれるかの目線の置き方が格別に感じる。
また、「『いつもと同じ』だと思っている日常にこそ、未知との出会いがある」(まえがきより)という言葉は、“散歩の達人”と共鳴する部分を(勝手に)見出せる。下調べをせず、聞いたことのない料理名をあえてチョイスする、そういった冒険を私もしなければと痛感した。個人的には、ブータン料理のシャモダツィが今のところ一番気になっている。(阿部)
鈴木もぐら 著『没頭飯』(ポプラ社)
「Dis-moi ce que tu manges, je te dirai ce que tu es.」19世紀フランスの美食家ブリア=サヴァランが綴った「人が何をどのように食べるかは、その人の生き方そのものだ」といった意味を持つこの言葉。食事を単なる栄養補給で終わらせたくない私の脳には、この言葉が焼き付いていた。一方で鈴木もぐらという人間は、この概念を脳ではなく感覚をフル稼働させて生(き)のままに体現している。本書を読んでそう感じ、本来のあるべき姿を見せてもらった気がしていままでの自分を少し恥じた。
コント師「空気階段」として活躍する鈴木もぐら氏初の単著であるこの『没頭飯』には、卵かけご飯の食べ方から銀杏BOYSの峯田さんが教えてくれたハンバーガーの味まで、彼が食と向き合い、食を通して人生をもつくりあげる姿が描写力を携えたエッセイ形式で綴られている。
この一冊を「私はうまいもんを食うために生まれてきたんだ!」が口癖の母に捧げている点からも、彼の言い表し難い愛情を感じるが、個人的には高円寺での描写にも心が波打つ。うだつのあがらない時期に街を練り歩いた日々、自分ための横断幕が商店街に掲げられた瞬間など、己に降りかかる酸いも甘いも噛みしめ飲み込んできた街での一節には、幾重もの風景が浮かび上がってくる。自身でも「高円寺出られなくなっちゃった芸人」と表現しているが、そこまで熱烈な街との関係を築けることがうらやましくてたまらない。(桑原)
倉方俊輔 著『建築を旅する 歴史と地域を楽しむ「建築ツーリズム」のすすめ』(イカロス出版)
「建築は旅の目的になる」。
そう冒頭で綴る、建築史家の倉方俊輔さん。建築の本というと、設計者を軸にしたものや、「〇〇様式が~」というような、学術的な内容をイメージする人も多いと思うが、本書はその一歩先を見据えている。
構成としては、全国60の建築が順々に紹介されていく。各物件について、建物の物理的なディテールも解説されるが、特筆すべきは「なぜここに建ち」「どのように使われてきたか」を詳しく説明している点だ。例えば、私の地元・山形から選ばれているのは、明治11年(1878)竣工の『山形市郷土館』。一目見ただけで、重要文化財と分かるような建築で、元々県立病院として東北地方で最も早く西洋医学を取り入れて開院した。この建物が生まれた背景には、大久保利通と同郷で、鹿児島出身の初代県令である三島通庸の近代化への熱い想いがあったという。この種の建築は、都市部や九州などに多いイメージを持っていたが、田舎だと思いながら育った我が故郷にも、150年近く前にそんな歴史があったことを感じられ、胸が熱くなってしまった。このように、本書は建築をきっかけにして、その土地の歴史や文化にまで関心を広げられるようになっている。それこそが、建築を最終目的地にはしない、建築ツーリズムのはじまりなのだ。(高橋)
大野達也 著『工場の解体新書』(イカロス出版)
本書は、工場の稼働現場や内部の組織体制、さらには世界市場における日本の立ち位置と歴史までをまるっと学べる一冊だ。
特筆すべきは、都道府県別に紹介される「その土地ならではの産業」の深掘りである。各県の新たな魅力に気づかされるのが楽しい。国内の手袋はほとんど香川県産だったとは……。
また、製鉄所や造船所といった重工業から、ウォシュレットや貨幣まで。多岐にわたる現場の裏側を覗(のぞ)き見る感覚は、さながら工場見学でこれもまた楽しい。
視点を転じれば、今この書評を読んでいるデバイスもまた、どこかの工場で産声を上げたものだ。わたしたちの生活はつくづく工場に支えられていることに気が付く。
加えて「工場の立地はどう決まるのか」という素朴な疑問から、人手不足や休日の実態といった、労働面のリアルまで丁寧に拾ってくれる。単なる見学記に留まらず、我々を支えてくれている「工場の仕組み」の全貌を浮き彫りにしてくれるのだ。
これまで何気なく通り過ぎるだけの工場だったが、本書を通じて凄技の産業用ロボットや、職人技を直接浴びるために実際に足を運びたくなった。(奥田)
パンス 著『「いまどきの若者」の150年史』(筑摩書房)
本書は、ライターやDJのほか、「年表制作者」の肩書をもつ著者による、明治以降150年分の「若者の語られ方」を辿ったもの。著者のパンスさんには、弊誌2025年10月号「散歩は音楽」特集にて神保町の音楽事情についての記事を取材・執筆いただき、その節は大変お世話になりました。
「しらけ世代」「ゆとり/さとり世代」「Z世代」など、だれもが一度は耳にしたであろう若者の世代を指すための言葉。これらは当人たちが「私たちは〇〇世代だ!」と表明したわけではなく、メディアを中心にどこからともなく命名され、定着していったものだ。“上の世代”たちはそんなカテゴライズを基に、“下の世代”を嘲笑したり、ときにはもてはやしたり。そんなことが社会では延々と繰り返されてきたのだ。
本筋とは少しずれるかもしれないが、個人的に興味深かったのは、若者を語るための言葉と並行して辿られる若者文化について。太陽族や暴走族、ヒッピー文化やグランジの流行など、自分たちに冷ややかな視線を送る大人たちに呼応して生まれていったさまざまなカルチャーたち。若者の歴史とは、サブカルチャーの歴史でもあったということを改めて認識出来た。
名前を付けるということは、その対象を<自分とは異なる存在>として距離を取るということ。本書終盤に言及される「老害」という言葉、よくよく考えるとかなりドキッとする。距離をとるということを通り越して、もはや攻撃ではないか。本書をきっかけに、世代という枠を超えた、他者との向き合い方について、今一度考えてみようと思う。(守利)
構成・撮影=散歩の達人/さんたつ編集部







