水害から街を守る世界最大級の地下河川「首都圏外郭放水路(龍Q館)」【南桜井】

調圧水槽はサッカーコートより大きい長さ177m、幅78mで、高さは18m。写真奥に4台の巨大な排水ポンプ、その先には江戸川がある。
調圧水槽はサッカーコートより大きい長さ177m、幅78mで、高さは18m。写真奥に4台の巨大な排水ポンプ、その先には江戸川がある。
ポンプには航空機用に開発されたガスタービンが使われている。
ポンプには航空機用に開発されたガスタービンが使われている。
調圧水槽から見た第1立坑。トンネルから来た水を水槽に送る。
調圧水槽から見た第1立坑。トンネルから来た水を水槽に送る。

中川・綾瀬川流域の浸水被害を防ぐために建設された放水路。立坑で各河川から取り込んだ水は、国道16号の地下約50m、大落(おおおとし)古利根川から江戸川まで全長6.3kmのトンネルを経て調圧水槽に流れ込み、巨大な排水ポンプで吸い上げて江戸川へと流す。2006年の完成以降、年に平均7回ほど稼働しており、2015年9月の台風の際には約1900万立方メートルもの水を江戸川に排水した。調圧水槽などの見学会を開催している。

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江戸時代から始まった暴れ川との戦い

古代(利根川が国境だった頃)。古代・中世の利根川は常に乱流し流路は決まっていなかったと推測されている。また室町時代後期には、熊谷から現在の綾瀬川筋を流れていたものが荒川の幹線だったという説もある。
古代(利根川が国境だった頃)。古代・中世の利根川は常に乱流し流路は決まっていなかったと推測されている。また室町時代後期には、熊谷から現在の綾瀬川筋を流れていたものが荒川の幹線だったという説もある。

戦いは、江戸時代から始まった。

それまでの利根川は、山地から意気揚々と関東平野に躍り出た後、荒川や綾瀬川と合流や分流を繰り返しながら江戸湾(現東京湾)に注いでいた。沿岸ではしばしば水害が起こるばかりか、氾濫のたびに流路を変え、低地を自由奔放に流れてきた日本屈指の暴れ川。坂東太郎、すなわち関東の長男たる呼び名もあるが、かなり自分勝手で手に負えないタイプの長男坊なのだ。

江戸時代初期(利根川東遷・荒川西遷前)。利根川と荒川は越谷付近で合流し、江戸湾に注いでいた。現在利根川の支流になっている渡良瀬川(当時の名は太日川)は利根川と並行して南下、下流では現在の江戸川筋を流れていた。
江戸時代初期(利根川東遷・荒川西遷前)。利根川と荒川は越谷付近で合流し、江戸湾に注いでいた。現在利根川の支流になっている渡良瀬川(当時の名は太日川)は利根川と並行して南下、下流では現在の江戸川筋を流れていた。

徳川家康は江戸に入ってすぐ、この長男坊の厄介払いに取り掛かる。時期と目的は諸説あるようだが、治水こそが江戸の開発と繁栄の鍵だったのは間違いないだろう。文禄3年(1594)から約60年の月日をかけて、関宿から東へ流れ銚子で太平洋へと注いでいた常陸川に利根川を流した。これが利根川の東遷と呼ばれる瀬替えだ。

さらに、時を同じくして荒川の西遷も行われる。名前のとおり荒ぶる川でいわば利根川の不良友達だった荒川は、寛永6年(1629)に入間川の支川だった和田吉野川に付け替えられた。中川低地で好き放題していた二大河川を、それぞれ東と西へ追いやったわけだ。

人の手で流れを変えられた利根川がもとの流路へ戻りたがる?

古隅田川や大落古利根川沿いに分布する河畔砂丘(赤線で囲った部分)は大河川の流域に形成される地形で、利根川が流れていた名残だ。出典=国土地理院(治水地形分類図を加工して作成)。
古隅田川や大落古利根川沿いに分布する河畔砂丘(赤線で囲った部分)は大河川の流域に形成される地形で、利根川が流れていた名残だ。出典=国土地理院(治水地形分類図を加工して作成)。

利根川の東遷と荒川の西遷によって、それまで水浸し状態だった低地は新田開発が進み、河川の舟運も発展。もともと利根川の本流だった流れは古利根川と呼ばれ、荒川が流れていた川筋は元荒川という名に。どちらも農業用の水路として活用されるようになる。しかし、これで万事解決というわけにはいかなかった。以降もやっぱり水害には悩まされるのである。

春日部の歴史上の偉人としてよく名の挙がる見川喜蔵(みかわきぞう)は、江戸時代に自費で古利根川の堤防を補強するなど水防に励んだ粕壁宿の名主。また、中川低地に多く分布し春日部市内だけでも300基近く確認されている「水塚(みづか)」は、洪水の際に避難するための塚やその上に建てた蔵のこと。大半は江戸~明治時代にかけて築造されたもので、度重なる水害に抗(あらが)った歴史の名残だ。

その水害の一因とされているのが、天明3年(1783)の浅間山噴火。降り積もった大量の火山灰は利根川にも流れ込み、川床が高くなったことによって洪水が頻発するようになった。明治43年(1910)の豪雨では、古利根川や庄内古川が決壊。

さらに1947年のカスリーン台風では、利根川の右岸のほか荒川の左岸も決壊した。荒川から流れ出た氾濫流は元荒川沿いに南下、春日部市付近で利根川からの濁流と一緒になって利根川の旧流路をたどるように中川低地を下り、東京湾近くにまで達する未曽有の大災害。「利根川はもとの流路に戻りたがる」なんて言われることもあるが、かつての暴れ川がひと晩地元に舞い戻ったかのような被害だったのだ。

江戸~大正時代(利根川東遷・荒川西遷後)。会の川締め切りに始まり、新川通と赤堀川を開削し、利根川は常陸川筋が本流に。関宿から太日川下流までが開削されて江戸川も誕生。荒川は久下で締め切り和田吉野川に付け替えられた。
江戸~大正時代(利根川東遷・荒川西遷後)。会の川締め切りに始まり、新川通と赤堀川を開削し、利根川は常陸川筋が本流に。関宿から太日川下流までが開削されて江戸川も誕生。荒川は久下で締め切り和田吉野川に付け替えられた。

しかし、坂東太郎の肩を持つわけではないが、地形を考えれば「戻りたがる」のも無理はないのかもしれない。利根川、江戸川、荒川に囲まれた中川低地は水がたまりやすい皿のような地形で河川の勾配もゆるやか。荒川放水路の開削をはじめ明治~昭和時代にかけて各河川の改修工事が進んだものの、流域の都市化が進んで田畑が減ったことで遊水・保水機能が低下しているという課題も新たに勃発していた。

守られる場所から、守る場所へ。最新の治水技術が動き出す

上の河川図と同じ範囲の色別標高図。かつて利根川と荒川が流れ込んでいた中川低地が、台地に囲まれた低平な地形であることがわかる。出典=国土地理院(色別標高図・陰影起伏図を加工して作成)。
上の河川図と同じ範囲の色別標高図。かつて利根川と荒川が流れ込んでいた中川低地が、台地に囲まれた低平な地形であることがわかる。出典=国土地理院(色別標高図・陰影起伏図を加工して作成)。

利根川東遷の着手から約400年。その戦いに決着をつける治水技術の集大成ともいえるのが、2006年に完成した首都圏外郭放水路だ。北春日部駅すぐそばの大落古利根川から、幸松川、倉松川と中川、18号水路を経て江戸川まで至るこの放水路は、地下トンネルとして建設されたもの。洪水を起こしやすい中小河川から、ゆとりのある江戸川へ水を送ろうというわけだ。

規模の大きさもさることながら、水を汲み上げる排水ポンプは4台で1秒間に200立方メートルを排水できるというパワフルっぷり。人の手で瀬替えをやってのけた江戸時代もすごいが、やはり現代の最新技術は頼もしい。2019年に猛威を振るった台風19号では、1982年の洪水と同等の降雨量に対して浸水戸数は9割減と、見事に、そして確実に街を水害から守っている。

調圧水槽の空間に威厳を感じるのはきっと、暴れ川との戦いのなかで培ってきた叡智(えいち)が詰まっているからだ。

現在。荒川放水路は明治44年(1911)に着工、昭和5年(1930)に完成。首都圏外郭放水路は2006年に大落古利根川~江戸川の全区間の通水が可能になった。
現在。荒川放水路は明治44年(1911)に着工、昭和5年(1930)に完成。首都圏外郭放水路は2006年に大落古利根川~江戸川の全区間の通水が可能になった。
住所:埼玉県春日部市上金崎720/営業時間:9:00~16:30/アクセス:東武鉄道東武アーバンパークライン南桜井駅から徒歩25分

取材・文=中村こより 撮影=オカダタカオ
『散歩の達人』2026年3月号より

参考文献=『水利科学』5巻4号・46巻2号(水利科学研究所 日本治山治水協会 1961年・2022年)、『利根川治水史』(栗原良輔 崙書房 1973年)

河川図は国土交通省関東地方整備局荒川上流河川事務所の図を元に作成。地名はすべて現在のもの。