カウンターに5席だけ。小さなお店で真剣に珈琲と向き合う店主

『喫茶 長月』があるのは、住宅の中にぽつぽつとお店がある通り。
『喫茶 長月』があるのは、住宅の中にぽつぽつとお店がある通り。

店内にはコーヒーの香りと、豆を焙煎するときに出る独特の香りの両方が漂う。静かに音楽が流れていて、カウンターの中に黒いベスト姿の店主・飯田優人(いいだゆうと)さんが立つ。

メニューブックには、抽出に時間がかかることなどを説明する言葉も書かれている。
メニューブックには、抽出に時間がかかることなどを説明する言葉も書かれている。

差し出されたメニューブックを開くと、ブレンド珈琲の文字の下に「ふつう」「こいめ」 「うすめ」と書かれている。「こいめ」にオススメの文字が添えられていた。

少し迷っていると「もし苦めが好きなら、こいめ。普段あまり珈琲を飲まないような方にはふつう。普段アメリカンなどを飲んでいる人には、うすめをおすすめしますね」と応えてくれた。ここはやはりおすすめをと、「こいめをください」とお願いした。

店主の飯田優人さん。9月生まれだから『長月』と店名をつけたのだとか。
店主の飯田優人さん。9月生まれだから『長月』と店名をつけたのだとか。

左手にネルドリッパー、右手にポット。しずくを垂らすように傾けたポットは、小さく円を描く。ドリッパーは数センチずつ上下させる。繊細な動きに見入って、話しかけるのをためらった。

「その方のコーヒーを淹れている間は、大丈夫ですよ」と飯田さん。

ブレンド珈琲のこいめは800円、ふつうとうすめは700円。
ブレンド珈琲のこいめは800円、ふつうとうすめは700円。

老舗有田焼ブランド、香蘭社のカップに注がれたこいめは、苦すぎるわけではなく、安心できる深みがある。少しずつ飲んで、飲み込んだあとも舌の上でゆっくり余韻を楽しみたい味だ。

いつの間にかどんどん好きになったネルドリップ珈琲を仕事に

こいめには1杯あたり30gの珈琲豆が使われる。
こいめには1杯あたり30gの珈琲豆が使われる。

飯田さんに珈琲を好きになったのはいつかとたずねてみると、「決定打となるような出来事があったわけではなく、楽器を触ってみたいとか……」という答え。

前触れなく出てきた楽器という言葉について聞き返した。「嗜好品を掘り下げたくなる時期って、20歳前後にありますよね。人によっては楽器だったり、お酒だったり。私にとって珈琲が、その中でいちばんだったんです」という言葉が返ってきた。

飯田さんは茶所、静岡の出身。育った家に飲む習慣はなかったコーヒーに出合ったのは学生時代。自宅でペーパードリップを使って淹れたり、専門店を訪れたりするうちに自分の好みがはっきりしてきた。

自家焙煎された深煎りの珈琲豆をネルドリップを使って抽出した珈琲。つまり、今『長月』で提供している珈琲のスタイルだ。次第に自宅でも焙煎を始めるようになった。

焙煎を始めたころに使っていたザルタイプの焙煎器具。
焙煎を始めたころに使っていたザルタイプの焙煎器具。

「ネルドリップには独特の液体の質感や香りの立ち方があります。淹れる人によって味が異なるし、飲んでいるとその人の考え方までわかるようでおもしろいんですよ」というのがネルドリップに魅せられた理由だという。

「好きなものを趣味で思う存分楽しむか、好きなことを仕事にして生きていくかを考えて、仕事にすることにしました」と25歳で最初に就職したデパートを退職。独立までに2つのカフェで勤務し、2軒目は、表参道にあった伝説的な喫茶店「大坊珈琲店」で働いていた人が営む恵比寿の『Cafe Tram(カフェ トラム)』だった。同じ豆で、うすめからこいめまで提供する『長月』のスタイルは、当時の『Cafe Tram』と同じだ。

レアチーズケーキ300円。ゼラチンの量も控えめ。
レアチーズケーキ300円。ゼラチンの量も控えめ。

常時2つあるスイーツのうち、チーズケーキも『Cafe Tram』を参考にした。甘みはごく控えめであっさり。甘いものは苦手でも、味わい深い一杯と一緒になにか食べたいという気持ちに応えている。

オープンから7年。お店のありたい姿も徐々に変化

手回し式の焙煎機は、ステンレスでできている。
手回し式の焙煎機は、ステンレスでできている。

カウンターの隅には『長月』でずっと使われている焙煎機が置かれている。ガスコンロの上にのせて、ハンドルを回しながら使うタイプだ。

「使い始めたころは、この焙煎機でしか出せない味があると思っていましたが、大型焙煎機で焼いた珈琲もおいしいと感じることが多くなりました」と飯田さん。2018年11月にお店を開いて7年が経ち、焙煎機だけでなくお店や訪れる人への気持ちにも変化が生まれた。近ごろ、よく思い出すのは以前働いていたお店で時折訪れた、客席から慎ましく会話を楽しむ様子がうかがえる時間帯のこと。

「この店を開いたときはとにかく静かな雰囲気にしたいと考えていました。最近はもう少し大衆性がありながら、お客さまが各々の時間を邪魔されずに楽しめるような、リラックスしたにぎやかさを感じる時間もあるといいかなと思います」と語る。

こいめを飲んだあと、ふつうも淹れてもらった。味のバランスは大きく変わらない印象だが、こいめより舌の上に深い味わいが残る時間は短い。こいめを飲むのがウイスキーをロックで飲むようなペースだとしたら、ふつうは水割りで飲むような印象。濃さは好みだけでなく、こいめは時間にも心にもに余裕があるとき、ふつうやうすめは小休止したいタイミングにもよさそうだ。

同じブレンドでも濃さが異なると珈琲との向き合い方が自ずと変わる。まさに嗜好品らしい珈琲を『長月』で楽しんでみてはいかが?

住所:東京都杉並区高円寺南3-24-6/営業時間:12:00~19:00/定休日:火・最終水/アクセス:JR中央線高円寺駅から徒歩13分

取材・文・撮影=野崎さおり