【今回のコース】『べらぼう』時代の情緒が漂う深川を歩く

今回のコースは以下の通り。

地下鉄東西線木場駅→(10分)→木場公園→(30分)→曲亭馬琴誕生の地→(10分)→一乗院・朋誠堂喜三二の墓→(10分)→深川釜匠→(2分)→霊巌寺・松平定信の墓→(10分)→清澄庭園→(5分)→清澄公園→(5分)→清洲橋→(3分)→平賀源内電気実験の地

蔦重と二人三脚で話題作を次々発表した作家の生誕地

木場公園からは仙台堀川に沿って続く遊歩道を歩く。
木場公園からは仙台堀川に沿って続く遊歩道を歩く。

木場が確立したのは元禄14年(1701)で、江戸中の材木を一手に扱う活気あふれる庶民の町となった。同時に水面が輝く堀割りとそこに浮かぶ材木が、水郷のような見事な景観を醸し出していたと言われている。その様子が江戸市中とは一線を画し、風流人たちが別邸や別荘を建てて、優雅な日々を楽しんでいた。

今は水郷のような景観は残されていないが、仙台堀川や大横川に囲まれた広大な木場公園が現代の風流を醸し出していると言えるかもしれない。公園の周辺は木場4丁目、5丁目にあたるが、この辺りにあった質屋「伊勢屋(岩瀬)伝左衛門」の長男として宝暦11年(1761)に生まれたのが戯作者・浮世絵師として時代の寵児となった、山東京伝(さんとうきょうでん)である。

安永2年(1773)になると、父とともに京橋銀座に転居する。その際、通称であった京屋伝蔵が略され京伝と呼ばれていたので、そのまま雅号とした。浮世絵の世界では北尾重政に学び、北尾政演(まさのぶ)と号していた。本名は岩瀬醒(さむる)というから、何ともややこしい。天明2年(1782)に発表した『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』が大田南畝(おおたなんぽ。別名・蜀山人〈しょくさんじん〉)に認められ、人気の戯作者となり蔦屋重三郎(蔦重)の耕書堂からも、多くの作品を世に送り出している。

松尾芭蕉が『おくの細道』の旅に出発したのが深川であった。海辺橋の橋台地には濡縁に腰掛けた旅姿の芭蕉像が設置されている。
松尾芭蕉が『おくの細道』の旅に出発したのが深川であった。海辺橋の橋台地には濡縁に腰掛けた旅姿の芭蕉像が設置されている。

山東京伝が生まれた家の場所ははっきりわからないが、木場公園はかつての貯木場であったから、その周辺であったと思われる。多目的広場やテニスコート、『東京都現代美術館』まである広大な公園なので、ここだけで1日過ごすこともできるだろう。だが今回の散歩は、深川界隈がメインなので早速そちらに向かうことにした。木場は寄らず深川だけを歩く場合は、東京メトロ半蔵門線と都営大江戸線が乗り入れる清澄白河駅を使うと便利だ。

木場から深川方面へは、かつて材木などを江戸市中に運ぶために張り巡らされた水路のひとつ、仙台堀川沿いにある遊歩道を西へと向かった。この堀の名前の由来は、かつて堀に沿って仙台藩の深川蔵屋敷があり、この堀を利用して仙台から運ばれた米などの物資を運び入れていたからだと言われている。今はかつて深川に住んでいた松尾芭蕉が『おくの細道』で詠んだ18句の句板が立てられている場所もあって、長く歩いていても飽きることがない。都会の喧騒を忘れられる、気持ちのいい道だ。

ドラマの人気者の墓と今後登場する重要人物の生誕地

清澄通り沿いにある江東区ふれあいセンター・平野児童館前に立つ「曲亭馬琴誕生の地碑」。
清澄通り沿いにある江東区ふれあいセンター・平野児童館前に立つ「曲亭馬琴誕生の地碑」。
『南総里見八犬伝』106冊が重ねられたモニュメントとなっている。
『南総里見八犬伝』106冊が重ねられたモニュメントとなっている。

仙台堀川に沿って散歩していると、海辺橋の北東側、清澄通り沿いに「曲亭馬琴(きょくていばきん)誕生の地碑」がある。馬琴はまだドラマには登場していないが、後に蔦重の店で手代として奉公する重要人物。馬琴は父親が旗本の松平信成の用人を務めていたため、その屋敷内で生まれている。

馬琴が9歳になった時、父親が亡くなったために棒禄が半減された。それを不満に思った馬琴は、14歳になると松平家を出奔。文筆で身を立てようと山東京伝に師事する。やがて京伝の口利きにより、蔦重の店に手代として雇われることとなる。

そんな馬琴の代表作と言えば『南総里見八犬伝』である。誕生の地には通常の碑とは異なり、刊行された当時の八犬伝を模った106冊の本が積み重ねられたモニュメントが建てられている。これは江東区ふれあいセンター・平野児童館前にあるので見つけやすい。

墓苑から少し離れた場所にある一乗院。
墓苑から少し離れた場所にある一乗院。

馬琴誕生の地のすぐ近くには、一乗院という日蓮宗の寺院がある。寛文10年(1670)に創建され、350年以上この地域に根付いている。この寺院が持つ一乗院墓苑に、蔦重の出版事業成功のために欠かせない人物であった朋誠堂喜三二の墓がある。

喜三二は享保20年(1735)、江戸の武士である西村久義の子として生まれた。14歳の時に母方の縁戚で秋田藩士の平沢常房の養子となり、平沢姓を継いで常富(つねまさ)と名乗った。平沢家は秋田藩の定府藩士のため、江戸での留守居役を務めている。藩の重役として吉原にも出入りしていて、情報収集や社交の場として活用していた。

喜三二は多くのペンネームを使い分け、武士としての公務と文芸活動を巧みに両立させ、当時の江戸文化に大きな足跡を残した。それは黄表紙や洒落本といった戯作で、確固たるスタイルを残すことになる。蔦重とのコンビも絶妙で、耕書堂成功の立役者になった。

墓苑の門上のアーチにあった「一乗院」の名前がなくなっているので注意。
墓苑の門上のアーチにあった「一乗院」の名前がなくなっているので注意。
墓苑一番奥の右手に小さな墓石が立っている。
墓苑一番奥の右手に小さな墓石が立っている。

喜三二の墓は一乗院の本堂がから少し離れた場所の、一乗院の墓苑内にある。この墓苑の場所がわからない場合、一乗院で尋ねれば親切に教えてくれる。墓苑に入ったら通路を突き当たりまで進み、右に折れると角の手前に古い墓石が見える。小さな合祀墓だが墓石には「平澤氏累代之墓」と、はっきり刻まれているので見つけやすい。

庶民の腹を満たし続けた素朴で味わい深い江戸グルメ

霊巌寺や『深川江戸資料館』があるエリアはどことなく下町情緒を感じる。
霊巌寺や『深川江戸資料館』があるエリアはどことなく下町情緒を感じる。

朋誠堂喜三二の墓から北へ2ブロックほど進むと、「深川江戸資料館東」の交差点前に至る。交差点の左手には江東区立の『深川江戸資料館』があり、右手を見れば江戸の下町の代表的な味、深川めしの『深川釜匠』店構えが目に入る。やはり深川散歩なら、この江戸名物を食べないわけにはいかないでしょう! ということで、さっそく店内へ。

金の釜が目印の『深川釜匠』。東京都江東区白河2-1-13、TEL:03-3643-4053。
金の釜が目印の『深川釜匠』。東京都江東区白河2-1-13、TEL:03-3643-4053。
店内は1階がテーブル席、2階と3階は座敷で個室もあり。
店内は1階がテーブル席、2階と3階は座敷で個室もあり。

かつて江戸湾の豊かな干潟が育んだアサリは、江戸庶民の味として親しまれた。『釜匠』ではアサリとしめじをこだわりの出汁で炊き上げた「深川めし」と、ザックリと刻んだネギと油揚げ、それにアサリを特製の出汁で煮込み、最後に卵の黄身だけ落とした「深川丼ぶり」が自慢。どちらも魅力的で悩んでしまったが、今回は「深川めし」のほうをいただくことにした。

秘伝の出汁とアサリから滲み出た旨味が、ごはんの一粒一粒に染み込み、ふっくらと炊き上がったごはんは、すぐに箸が止まらなくなるほど。アサリの絶妙な塩味やおこげの香ばしさは、間違いなく江戸の庶民から愛された素朴な味を感じさせてくれた。それと驚かされたのがアサリと葱、刻み海苔の量。昔のようにアサリが簡単に手に入らない今のご時世、この贅沢を味あわない選択肢はない。

深川めしは見た目以上にボリュームがあるので、小食の人は食べきれないかも。そんな時のためにテーブル上にラップが用意されているので、おにぎりにして持ち帰ることもできる。ただし「深川丼ぶり」のほうは汁がかかっているのでおにぎりにはできない。それと持ち帰りはあくまで自己責任なので、保管には要注意だ。

「深川めし」はお新香、味噌汁、小付が付いて1490円。
「深川めし」はお新香、味噌汁、小付が付いて1490円。

出版統制例を含む改革により蔦重らを苦しませた老中の墓所

『釜匠』を後にして『清澄庭園』方面へ向かうと、『深川江戸資料館』の並びに霊巌寺がある。もともとは寛永元年(1624)、隅田川の河口を埋め立ててできた霊巌島(現在の中央区新川)に、雄誉霊巌上人(おうよれいがんしょうにん)が創建した浄土宗の寺院だ。明暦の大火で焼失したことをきっかけに、現在地の深川に移転している。

立派な山門が目印になる霊巌寺。
立派な山門が目印になる霊巌寺。

この寺院の境内には、寛政の改革を断行し厳しく風紀を取り締まったことから、蔦重にとって最大の障壁となった松平定信の墓がある。国の史跡に指定されている墓所は、塀で囲まれていて門の前から遥拝するという、大変立派な造りになっている。さすがは御三卿出身で、老中として辣腕を振るった人物だったことを偲ばせてくれる。本人は大の黄表紙ファンだったので、今後はさらに蔦重との絡みが多くなるであろう。

本堂に向かって左手にある松平定信の墓所。門の前から遥拝する。
本堂に向かって左手にある松平定信の墓所。門の前から遥拝する。

また霊巌寺の境内では、「江戸六地蔵」のひとつに数えられている「銅造地蔵菩薩坐像」も拝むことができる。これは享保2年(1717)4月、深川地蔵坊が願主となって、神田鍋町の鋳物師・太田駿河守藤原正儀によって鋳造されたものだ。坐像には約1万人もの結縁者の名前が陰刻されている。

その大きさに目を奪われる「銅造地蔵菩薩坐像」。
その大きさに目を奪われる「銅造地蔵菩薩坐像」。

憩いの場となった名園を抜け、奇才が活躍した場所に立つ

霊巌寺の次は、今回最後の目的地である平賀源内がエレキテルの実験を行った場所の跡へと向かう。その前に、江戸時代の大名屋敷に用いられた泉水、築山、枯山水が主体となっている回遊式林泉庭園が見られる、『清澄庭園』に立ち寄ってみた。もともとこの地の一部は、江戸時代の豪商・紀国屋文左衛門の邸跡だったと伝えられている。その後、下総の藩主・久世(くぜ)大和守の下屋敷になったが、明治になるとすっかり荒廃していた。

大泉水を一周し、見事な枯山水や全国から集まられた名石を楽しみたい。入園料は一般個人150円。
大泉水を一周し、見事な枯山水や全国から集まられた名石を楽しみたい。入園料は一般個人150円。

明治11年(1878)、三菱の創業者である岩崎弥太郎が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画。明治13年(1880)に「深川親睦園」として竣工。その後も整備が続いた。

関東大震災時に避難場所として多くの人命を救ったことから、岩崎家は庭園の東半分を東京市に寄付。それが現在の『清澄庭園』だ。その後、1977年に西半分も寄付され、こちらは開放公園となり、地域の人たちの憩いの場として親しまれている。どちらも都会とは思えないオアシス。庭園は日本の庭園美の真髄にも触れられるので、時間が許すならぜひ立ち寄りたい。

広大な芝生公園と数々の樹木が訪れる人を癒やしてくれる、入園自由の清澄公園。
広大な芝生公園と数々の樹木が訪れる人を癒やしてくれる、入園自由の清澄公園。
清洲橋から眺めた隅田川。川沿いを南へと向かう。
清洲橋から眺めた隅田川。川沿いを南へと向かう。

『清澄庭園』と清澄公園を抜けると、すぐに隅田川に行き当たる。佐賀町河岸通りに沿って河口方面に少し歩けば、川べりに立つ読売新聞の江東ビル前に出る。そこに「平賀源内電気実験の地」が立っている。この付近に平賀源内の自宅があり、源内は安永5年(1776)に日本で初めてエレキテル(摩擦起電機)の復元修理に成功。しばしば自宅で実験し、見せ物や医療器具として大名や豪商たちに販売したりしていた。現在、実験が行われたとされる地には、石碑だけが建てられている。

清洲橋上から5分もかからない場所に立つ「平賀源内電気実験の地碑」。
清洲橋上から5分もかからない場所に立つ「平賀源内電気実験の地碑」。

次回は『べらぼう』ゆかりの史跡があるだけでなく、観光地・散歩コースとしても魅力的な場所を紹介したい。場所がどこなのかは、リリースまでのお楽しみに。

取材・文・撮影=野田伊豆守

2025年の大河ドラマは、江戸時代中期から後期にかけて一世を風靡した版元・蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)が主人公。今で言うところの出版社経営者であり、超一流のアートディレクターである。武将や貴族、憂国の志士などと違い、市井の民の物語という異色の大河ドラマとして開始前から話題に事欠かない。そして第1回目の放送から大いに話題を提供し、視聴者の耳目を集めている。まさに「江戸のメディア王」を扱ったドラマにふさわしいスタートダッシュともいえるだろう。とにかく小気味いいテンポで話が進んでいくようなので、まずは蔦屋重三郎という人物を育んだ吉原という土地の今、東京都台東区を訪ねてみることにしたい。
「べらぼうめ!」主人公の蔦屋重三郎(以下・蔦重)をはじめ、登場人物が度々口にするこの言葉。ドラマのタイトルにもなっているが、もともとは穀物を潰した道具の「箆棒(へらぼう)」からきているとも言われ、意味は「穀潰し」という不名誉なものであったと伝えられている。それがいつしか一般的でない者に対して使われるようになり、転じて「常識では考えられないばかげたこと」や「桁外れなこと」を示す江戸ことばとなっていったとか。実際には「ばかだなぁ」くらいの、軽い意味で使うことも多かった。そして同じ江戸ことばで「何を言っている」を表す「てやんでぇ」と合わせ、「てやんでぇ、べらぼうめ!」が江戸っ子の決まり文句のようになっていく。まぁ大抵が気の短い江戸っ子の、喧嘩(けんか)の前口上という場面でのようだが。
大河ドラマ「べらぼう」を見ていると、毎回その言動が気になって仕方がない人物がいる。ある意味、もうひとりの主人公といっても過言ではない存在。それは江戸時代の天才クリエイター・平賀源内だ。主人公の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、以下蔦重)が何か壁にぶつかるたびに、フラリと現れては解決への糸口を探り当てる。平賀源内というのは実に多彩で、そのうえつかみどころのない人物である。もともとは讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の下級武士・白石家の三男として享保13年(1728)に生まれた。身分が低かったにもかかわらず、藩医の元で本草学を学び、宝暦2年(1749)頃には長崎へ1年間の遊学に出ている。長崎に行くことができたこと自体が謎なのだが、そのうえ何を学んでいたのか記録が定かではない。その後の活躍ぶりから、オランダ語や医学、油絵などを学んでいたのであろうと考えるのが自然だ。
ドラマ『べらぼう』では、次の将軍を選ぶための陰湿な争いが描かれ始めた。第10代将軍徳川家治(いえはる)の嫡男・家基(いえもと)が謎の死を遂げ、さらに真相を突き止めようと動いた老中首座の松平武元(たけちか)も、5カ月後に急死。田沼意次の毒殺ではないか、という噂が城内で広まっていく。そしてドラマでは、意次が懇意にしている平賀源内に調査を依頼。だが確固たる証拠が見つからぬまま、それ以上の探索はかえって事件を拡大させる恐れがあると感じた意次は、調査の打ち切りを決定。真相に迫っていると感じていた源内は憤慨する。そんな源内の元には、怪し気な人物が近づいてくる。
ドラマ『べらぼう』も中盤に入り、個性的な登場人物が次々に登場。現代でも高い評価を得ている芸術家や文化人と、彼らが生み出す作品を世に送り出した稀代のプロデューサー蔦屋重三郎(以下・蔦重)のアイデアが、一気に花開いていく様子が描かれている。その小気味の良い展開に、すっかり虜(とりこ)となってしまった人も多いようだ。安永2年(1773)、吉原五十間道に立っていた「蔦屋次郎兵衛店」を間借りして、書店「耕書堂」を始めた蔦重。本屋としての地歩を着実に固めた後、天明3年(1783)にはついに日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)に耕書堂を構えた。“ついに”と表現したのは、ここは鶴屋喜右衛門といった江戸の名だたる地本問屋が軒を連ねる書店街だったからだ。まさしくこの時に、出版界に「耕書堂あり!」となったのである。
ひと昔前の教科書では、田沼意次(たぬまおきつぐ)は“賄賂政治”という言葉と対になって記述されていた。だが大河ドラマ『べらぼう』では、近年見直されてきた改革者としての田沼像に寄せていると思われる。しかも演じているのが渡辺謙なので、切れ者感が半端ない。田沼意次は16歳の時、のちに九代将軍となる徳川家重の小姓となり、父の遺跡600石を継いでいる。家重が将軍職に就くと、意次も江戸城本丸に仕えるようになった。それとともに順次加増され、宝暦8年(1758)には1万石を拝領、大名に取り立てられる。家重が逝去した後も、十代将軍徳川家治から厚く信頼され、出世街道を歩み続けている。そして明和4年(1767)、側近としては最高職の側用人へと出世を遂げた。加えて2万石が加増され相良(さがら)城主となり、さらに安永元年(1772)になると、遠州相良藩5万7000石を拝領し藩主となった。そして幕政を担う老中にまで昇進したのだ。わずか600石の小身旗本が5万7000石の大名になり、しかも側用人から老中になった、初めての人物だ。そんな意次の足跡が残る相良を歩いてみた。