「パンの味で選んでほしい」と自分の店は住宅地の武蔵小山で

シェフの根本孝幸さん。焼成前のバターロールに卵液を塗る。
シェフの根本孝幸さん。焼成前のバターロールに卵液を塗る。

シェフの根本孝幸さんは、パン業界におけるレジェンドの1人。中学卒業と同時に上下関係の厳しい職場で製パン技術を身につけ、19歳でベーカリーの有名店『ポンパドウル』へ。その後も都心の有名店で腕を振るってきた。1995年、原宿に『AUX BACCHANALS(オーバカナル)』がオープンしたときには、立ち上げにも参加し、その後シェフを務めた。『AUX BACCHANALS』といえば、フランスの“キャフェ文化”を日本に伝える先駆けとなった店だ。

製造スタッフの飯塚有克(いいづかともかつ)さん(左)と髙﨑翔真(たかさきしょうま)さん(右)は焼き菓子の準備中。
製造スタッフの飯塚有克(いいづかともかつ)さん(左)と髙﨑翔真(たかさきしょうま)さん(右)は焼き菓子の準備中。

根本さんは37歳だった2007年に『nemo bakery & cafe』をオープン。独立にあたって、それまでパンを作ってきた商業地ではなく、学校やオフィスがほとんどない住宅地を選んだ。その理由は、地域密着型の店で、純粋にパンの味を評価されたいと願っていたから。

パンのことを明るく気さくに話してくれる根本さん。「有名なシェフのもとで働いていると、自分も腕が上がったと思いがちだ」「パンの売れ行きがいいのは、味がいいこととイコールではない」などと、節々に職人らしいストイックな一面ものぞかせる。

ショーソン・オ・ポムの仕上げを行う2番手の山下知恵(やましたちえ)さん。
ショーソン・オ・ポムの仕上げを行う2番手の山下知恵(やましたちえ)さん。

根本さんを含めて4人いる製造スタッフのうち、2番手の山下さんに「根本さんはどんな上司ですか?」と聞いてみると、「パンのことも、自分たちの状態のことも、なんでもお見通しです」との答えが返ってきた。一緒に働く人たちや作るパンの隅々にまで気を配りながら、毎日パン作りが行われている。

16種類もの小麦を使い分け。常に“もっとおいしい”パンを

お店に入ってすぐの場所に、バゲットやバタール、クロワッサンも並ぶ。
お店に入ってすぐの場所に、バゲットやバタール、クロワッサンも並ぶ。

『nemo bakery & cafe』を代表するパンといえば、バゲットやクロワッサン。定番のパンだが、特にバゲットはお店を開いてから18年の間に5度もリニューアルしている。「常に “もっとおいしい”ものを作りたいから、現状に満足してはダメ」と根本さん。自分に厳しくパン作りを極め続け、製パン用の小麦は16種類、発酵種は4種類を使い分けている。

トマトフランス490円とタマイズミ350円。
トマトフランス490円とタマイズミ350円。

お店に並ぶパンの中で、気になるのがタマイズミという名前のフランスパンだ。タマイズミとは、三重県や栃木県で栽培されている小麦のこと。三重県伊賀地域の全農から、主に醤油の材料となっていたタマイズミでパンを作って欲しいとリクエストされて開発した。タマイズミは、タンパク質の量が一般的なパン向けの強力粉より少ないこともあって、開発には時間がかかったそう。粉の香りが強く、さっぱりとした味わいで、飽きがこないパンになっている。

バターロール110円。5個入りは500円。いつもトレーのすぐそばに置かれている。
バターロール110円。5個入りは500円。いつもトレーのすぐそばに置かれている。

定番のパンの中でも、バターロールはオープンしてからずっと同じ場所に置かれている。小さい子供たちを意識して作っているパンで、いつでも迷わず手に取れるようになっている。

「半分しか食べられなかったのが1個まるごと食べられるようになった子とか、歯医者さんで泣かなかったご褒美に買ってもらうなんて子もいるんですよ」という話からは、小さな手でパンを持つ場面が浮かんでくるようだ。

バターロールはスーパーなどのパン売り場でもおなじみだが、本格的なパン屋さんで特別に買うイメージはあまりなかった。食べてみるとほんのり甘くて柔らかく、キメが細かくて、ちぎったときの弾力も心地いい。バターロールというパンの印象が大きく変わった。

口溶けのいい生地にこしあんがたっぷり入ったあんぱん250円。
口溶けのいい生地にこしあんがたっぷり入ったあんぱん250円。

他の定番といえるパンにもこだわりがいっぱい。あんぱんは、ブリオッシュ生地でこしあんを包んでいる。卵が入っていて黄色い生地は、軽いのにしっとり。口溶けもいい。

切れ込みのデザインもかわいいショーソン・オ・ポム380円。
切れ込みのデザインもかわいいショーソン・オ・ポム380円。

半月型のアップルパイ、ショーソン・オ・ポムは、甘みのある生地の中に酸味がシャキッとしたりんごのフィリングが入っていて、大人っぽい味わいだ。

小松菜とシラスのフォカッチャ500円は、レモンオイルをかけてさわやかに。
小松菜とシラスのフォカッチャ500円は、レモンオイルをかけてさわやかに。

総菜パンのひとつ、小松菜とシラスのフォカッチャは、生地のじんわりした食感と味わい豊かな具材の組み合わせがよく、仕上げにかけるレモンオイルが効いている。食事にもおつまみにもおすすめだ。

お店の中にはこだわりとやさしさが満ちている

お店は武蔵小山駅から徒歩3分。
お店は武蔵小山駅から徒歩3分。

「300件ぐらい物件を探し回ったんですよ」と開業前のことを根本さんは振り返る。店舗のデザインはフランス・ボルドー地方に実際にあったお店をモチーフにして、根本さん自ら物件が決まる前から図面を描いていた。それまで訪れたこともなかった武蔵小山にお店を開いたのは、その描いていたお店を現実にできる広さや諸条件が揃っていたから。

発酵バターを使ったこだわりのクロワッサン330円とエスプレッソ400円。
発酵バターを使ったこだわりのクロワッサン330円とエスプレッソ400円。

特に奥にあるカフェスペースは、どこに座っても気分よく過ごせることを意識。購入したパンやカフェ専用のサンドイッチをコーヒーやアルコールと共に食べることができる。

棚の奥に鏡が設置されているのは、子供たちが楽しく買い物できるように。
棚の奥に鏡が設置されているのは、子供たちが楽しく買い物できるように。

パンの売り場では、子供たちや身体が不自由な人も手が届きやすい位置に棚を設置している。カフェスペースも車椅子ユーザーが通りやすいように配慮されている。棚の奥に鏡が貼り付けてあるのは、子供たちが自分の姿が映ると楽しいと考えたから。パン製造の時間と同じように、お店の中も隅々まで配慮している。

カウンターはアンティークの扉などで作られている。
カウンターはアンティークの扉などで作られている。

日々熱い気持ちで作られる『nemo bakery & cafe』のパン。根本さんの謙虚さとやさしい気持ちも詰まっているようだ。

取材・撮影・文=野崎さおり