新佃島はかつて別荘地だった。島崎藤村なども訪ねた「海水館」
地下鉄大江戸線月島駅を出て佃大橋通りを渡り、佃3丁目の海側を目指して歩くと、佃大通りを進んだ角にマンション「海水館」が見えてくる。この場所にかつて「海水館」という名の割烹旅館があった。堤防に上がる階段を上ると、明治学院島崎藤村研究部が建立した記念碑があり、脇の解説板には以下のように書かれている。
「ここは明治二十九年(一八九六)に完成した新佃島埋立地の一部で、房総の山々を望むことのできた閑静な景勝地でした。ここに明治末から大正年間にかけて多くの文化人が集った海水館がありました。
海水館は坪井半蔵によって明治三十八年に開業した割烹旅館兼下宿で、当時の京橋区新佃島東町一丁目二六、二七番に建設されました。
島崎藤村は明治四十年から翌四十一年にかけて海水館に止宿して自伝小説『春』を朝日新聞に連載し、小山内薫は明治四十二年から四十四年にかけて止宿して『大川端』を読売新聞に連載しました。他にも荒畑寒村・木下杢太郎・佐藤惣之助・竹久夢二・日夏耿之介・三木露風・横山健堂・吉井勇ら多くの作家・芸術家が利用し創作活動を行ないました。
この碑は昭和四十三年(一九六八)、藤村の母校である明治学院大学の藤村研究部によって建てられたもので、裏には『春』の執筆由来の記が記されています。」
マンションや民家が建ち並ぶ今の風景からは想像もつかないが、海水館のあった当時、このあたりは住宅もまばらな別荘地だったという。俗世から離れた海沿いの一角は、作家たちが執筆するのに適した環境だったのだろう。今では都心までの利便性や運河沿いの眺めという点でとても魅力的な場所だが、マンション「海水館」の家賃を調べてみたところ、当然というか、なかなかの賃料だった。
防波堤の内側には近所の人たちが世話しているらしき植木鉢が並べられていて、風が吹くといわゆる磯の香りというのか、強烈な海のにおいが鼻をつく。晴海と豊洲のビルに遮(さえぎ)られて房総の山々を望むことはできなくなったが、海のにおいだけは当時とそれほど変わっていないのかもしれない。
そのまま堤防沿いに歩いて相生橋の方に向かうと、対岸の江東区越中島との間に中洲のような島があることに気づく。相生橋の歩道から下りてみると、かなりこぢんまりとした島だ。「中の島公園」というらしく、江東区が設置した解説板がある。相生橋が架けられた時に中継地点となった島で、昭和の初め頃には隅田川唯一の水上公園として賑(にぎ)わったそうだ。公園からさらに水面近くまで下りてみると、島の周囲を歩けるように遊歩道が整備されている。島の突端にあたる場所には大きな石の灯籠があり、その周りは潮の満ち引きによって水が出入りする「感潮池」になっている。海水の影響か、足元のコンクリートはボコボコに劣化して亀裂が入っていて歩きにくい。
晴海運河を正面に、左手には東京海洋大学越中島キャンパスの明治丸が見える。先ほどの解説板によれば中の島と明治丸は江東八景のひとつに選ばれているそうだが、今なら豊洲のビル群を加えてもいいかもしれない。湾岸の景色を楽しみ、再び佃に戻ることにした。
大川端リバーシティ21から漁師町の面影を残す佃島へ
清澄通りを渡り、大川端リバーシティ21に向かう。大川端リバーシティ21は石川島播磨重工業の工場跡地に整備された住宅地で、1986年に着工、2010年に全ての計画が完成した。高層マンションが建ち並ぶ湾岸の風景のはしりでもある。リバーシティ21に沿って歩いていると、突如ラグビーボール状の巨大なオブジェが現れる。Googleマップで確認すると伊東豊雄「風の卵」と書かれているが、周辺に解説板などは見あたらない。どこか現実感に乏しい光景だが、隅田川河口にそびえ立つ大川端リバーシティ21の浮遊感には合っていると思った。
佃小学校の脇の道を隅田川の方に抜けると中央区立佃公園だ。江戸時代には人足寄場(無宿者や軽犯罪者に手に職をつけて社会復帰させるための更生施設)が置かれていた場所で、公園内には人足によって築かれた石川島灯台を復元したモニュメントが建っている。
この日は閉館日で立ち寄れなかったが、リバーシティ21内には石川島・佃島の歴史を紹介する「石川島からIHIへ~石川島資料館~」があり、ウェブサイトによるとジオラマや映像ギャラリーなどの展示を見ることができるようだ。
佃公園から住吉小橋を渡り大きな赤い鳥居をくぐると、まっすぐ続く道の奥に住吉神社が見える。神社を訪れたのは平日の午前中だったが、地元住民らしき人たちが何人か参拝に訪れていた。住吉神社のある佃1丁目周辺は江戸時代初期に摂津国佃村の漁民が移住してきた旧来の佃島だ。特徴的な田の字型の町割りは築島当時からおよそ400年間変わっていない。先ほどのタワーマンションが建ち並ぶリバーシティから漁師町の面影を残す佃島まで歩いて5分程度だが、この風景のギャップも今の佃島らしさだろう。
佃島の路地を歩いていると、ときおり民家の軒先に井戸が設置されているのを見かける。きれいに管理されている様子なので、今でも植木の水やりなどに使われているようだ。
月島のもんじゃストリートを経て、水上学校の跡地を目指す
再び晴海通りを越えて月島に入り、もんじゃストリートとして有名な西仲通りを進む。葛飾区出身の私が子どものころに食べていたもんじゃは駄菓子屋の片隅で食べるおやつの延長のようなものだったので、東京名物となった月島のもんじゃの豪華さと値段にはいつも驚く。
通りを歩いていると、古い交番のような建物が見えてくる。大正10年(1921年)に設置され、大正15年(1926)に鉄筋コンクリート造に改築された「月島西仲通地域安全センター」だ。警視庁に現存する一番古い交番の建物で、現在は交番ではなく地域安全センターとして、警察官OBが道案内や地域の安全活動を行う施設になっているそうだ。
そのまま進むと、右手に昔ながらの個人書店といった趣の『相田書店』がある。店内は決して広くないが、文庫や漫画、雑誌から児童書まで、地域の人が必要とする本が置かれている。せっかくなので「地域雑誌『佃・月島』」など月島や東京の臨海部に関する本を買うことにした。帰宅してから「地域雑誌『佃・月島』」第八号を読んだら、『相田書店』は中央区で3軒しかない100年以上続く書店だと書かれていて、驚く。
この日はもんじゃ屋には寄らず、路地を入ったところにあった大陸系中華のお店で昼食をとることにした。店内はなかなか混んでいたが、近くの現場で働いていると思しき作業着の男性たちの他、家族連れが2組ほどいて、どちらの家族も子どもたちは日本語、親たちは中国語で会話していた。そのうちのひとりの子どもが私の席の後ろにあった電車のおもちゃに興味を示して近づいてきたが、親に注意されて渋々席に戻っていった。
汁なし担々麺のセットと蒸し餃子で信じられないくらい満腹になってしまい、追加で頼んだ蒸し餃子を後悔しつつ今度は清澄通りに向かって歩く。
取材した日は秋口とはいえまだ汗ばむような気候だったのだが、途中の路地で突然、地元住民らしい年配の女性に話しかけられた。「今日はなんだか暑いねえ、家にいてもすることないから出てきちゃうんだけどさ、こんな暑いと思わなかったよ」といった具合の、声をかけることに意味があるような、下町のコミュニケーションだ。
「そうですねえ、日陰はわりと涼しいんですけどねえ、まだまだ気をつけないといけないですね」などと二言三言やりとりした後「じゃあ、お気をつけて」と手を振って別れた。たまたま街ですれ違っただけの人との何気ない会話に、思わず心が緩む。
清澄通りに出て西に進み、月島川を渡ると住所は勝どきに変わる。晴海通りとの交差点まで来ると、右手に50階建てのタワーマンション「勝どきビュータワー」が見える。その下は公園になっていて、子どもたちの声で賑(にぎ)やかだ。この公園のある敷地の一部に、かつて水上学校と寄宿舎があった。
昭和の初め頃、中央区の隅田川河口付近には沖合の貨物船から貨物を積みおろして陸上に輸送する艀(はしけ)と呼ばれる船が多く見られた。艀は世帯ごとの仕事場にもなっていて、その人口の半数以上が陸上に家を持たない水上生活者だったという。そこで住民たちの福利厚生を行うための施設として建てられたのが水上学校と寄宿舎だった。周囲を見たが、そのことを伝える解説板などは設置されていないようだ。
公園を後にして再び清澄通りを進む。勝どきを歩いていて気づいたのだが、清洲通り沿いを中心にさまざまな年代の集合住宅やビルがあり、構造や装飾の違いを見ているだけで楽しい。月島〜勝どきの時代ごとの開発を反映しているようだ。なかでも東京ビュック中銀ビルは内部が巨大な吹き抜けになっていて、人工の水路まである。ビルの下には喫茶店やレストランもあるので、ビル鑑賞がてら寄るのに良い場所だ。
公園に残された「晴海高層アパート」の痕跡と出会う
勝どきから黎明橋を渡り、月島の隣の島、晴海に入る。3つのビルが上の方の通路でつながっている晴海トリトンスクエアのオフィスタワーの存在が一際目立つ。トリトンスクエア入り口のエスカレーターを上ると脇に見えてくるトリトンスクエアガーデンの緑がとても深く、背景の高層ビルと相まって、藤子・F・不二雄の短編「みどりの守り神」に出てくる、荒廃して緑に覆われた東京の風景のようだ。
休憩のためトリトンスクエアの中にある『コメダ珈琲』に立ち寄る。ふとiPhoneに入っているアプリ「東京時層地図」で今いる場所を見てみると、海の上だった。まるで船でアイスティーを飲んでいるような気分だが、改めてここが埋め立て地だったことを思い出す。
ひと息ついたあと、トリトンスクエアからさざなみ通りに架かる歩道橋を渡り、中央区晴海第一公園にむかう。この一帯にはかつて日本住宅公団晴海団地があり、前川國男によって設計された15号棟、通称「晴海高層アパート」が建っていた。その痕跡がどこかに残されているようなのだ。
ぐるっと公園を一周したあと、ベンチの後ろに柵のようなものが据え付けてあるのに気づいた。何も知らなければ少し変わったオブジェくらいにしか思わないだろう。足元にプレートがあり、説明によれば高層アパートの「手摺り」だという。取材の数日前、北区赤羽台にある『URまちとくらしのミュージアム』で移築された晴海高層アパートの一室を見たけれど、住居だった頃の状態を知っていると、公園に残された手摺りがまるでアパートの遺跡のように見える。
2024年の晴海フラッグ、2024年のTOKYO
晴海通りを南に進むと晴海フラッグのマンション群がみえてくる。そこから晴海運河の方に道をそれると、運河に沿って晴海緑道公園が整備されている。入居はすでに始まっているらしいが、緑道にもマンションにも人の気配をほとんど感じない。
緑道を進むと晴海ふ頭公園が見えてくる。斜面が波打ち球体が転がる不思議な遊び場があり、子どもたちが遊んでいる。レガシーか負のレガシーかなんて知ったことかとばかりに、子どもたちは目の前にある遊び場として埋め立て地の公園を走り回っている。この子たちにとってはここが地元だ。
公園の中央には2024年3月に設置されたばかりの「TOKYO」のモニュメントがある。わざわざそう言わなくても、背景にはレインボーブリッジや湾岸のビルなど、誰が見ても「東京」とわかる風景が広がっている。記念写真を撮っている人は(取材のために撮影している私を除いて)誰もいなかったが、モニュメントの裏側は階段状になっていて、その上で小さい子どもと母親がシャボン玉を吹いていた。
2024年の晴海フラッグは街の極北のような場所だった。まだ街とは呼ぶには物足りない、新しいマンションが整然と並んでいるだけの空間だ。今は何のにおいもしないが、公園の子どもたちが育つにつれ、堆積した時間とともに街のにおいがつくられていくのだろう。その時公園の中央に残された「TOKYO」は、苔が生えてひびが入り、グラフィティで埋め尽くされているかもしれない。
日が傾いて来た晴海ふ頭公園を後に、バスで月島まで戻ることにする。バスから外の景色を見ていると、晴海、勝どき、月島と、次第に生活の匂いが濃くなっていく。この日は汁なし担々麺と蒸し餃子のおかげで、夜まで腹が空(す)かなかった。
取材・文=かつしかけいた 撮影=かつしかけいた、さんたつ編集部
【参考文献・URL】
学習院大学学術成果リポジトリ 「海水館という文学空間」
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/records/4873
地域雑誌『佃・月島』第二号~第八号
https://tsukutsuki.com/life/useful-info/4053/
『中央区沿革図集 月島篇』
https://www.library.city.chuo.tokyo.jp/contents;jsessionid=BD1D5CF795A65F189C23240F51643C49?0&pid=119
水上生活者(月島地区) 中央区観光協会特派員ブログ
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/archive/2018/06/post-5158.html
東京水上尋常小学校(月島) 中央区観光協会特派員ブログ
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/archive/2018/07/post-5160.html
『建築討論』佐々木俊輔 連載:遺跡としての晴海団地(その1)
https://medium.com/kenchikutouron/%E6%9D%B1%E4%BA%AC-%E6%99%B4%E6%B5%B7-%E4%BD%95%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E5%B3%B6%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E7%A5%9E%E8%A9%B1-919e8349ebac
志村秀明著『ぐるっと湾岸 再発見』花伝社
https://www.kadensha.net/book/b10032521.html