3区・8区(戸塚中継所〜平塚中継所)の概要

国土地理院地図の標準地図に標高図・陰影起伏図を重ねて加工。
国土地理院地図の標準地図に標高図・陰影起伏図を重ねて加工。

「つなぎの区間」と呼ばれることもある3区・8区は、往復ともに21.4km。海風が障害になりうることがキーポイントとして挙げられがちな区間だ。というのも、往路の3区は強い向かい風が吹くことも多く、それに抗わなければいけない。逆に、復路の8区は追い風が背中を押してくれる……かと思えば一概にそういうわけではなく、風と同じ方向に走ると無風の状態になってしまって体感温度が上がる、なんてことがあるそうだ。

前回(2区・9区)と同様に山と海の両方を感じられるルートだが、海は東京湾ではなく相模湾になり、海岸にあるのも工場や港ではなく砂浜。2区(8区)で上った分の高さを3区(9区)で下るわけで、いわば対をなすともいえる。

テレビ中継を見ていると、海岸沿いの道の向こうに富士山が見えるという画がよく映るが、それはまさにここ。おなじみの風景も楽しみにしつつ、戸塚~平塚を歩いてみよう。

例によって、このシリーズでは基本的に往路の向きでコースをたどることをご承知おきいただきたい。

【戸塚中継所〜遊行寺坂】尾根道から一気に下る急峻な坂へ

国土地理院地図の標準地図に標高図・陰影起伏図を重ねて加工。
国土地理院地図の標準地図に標高図・陰影起伏図を重ねて加工。
尾根をゆく戸塚道路。
尾根をゆく戸塚道路。

戸塚中継所からも、しばらくはバイパス「戸塚道路」をゆく。前回、戸塚中継所の前に大坂という名の坂を上ったが、あれで再び台地の上にあがったのでしばし尾根道になる。旧東海道も同様で、このあたりは大坂松並木跡と呼ばれる地。松の木の間に富士山がよく見えたことから、浮世絵にも多く描かれた場所だ。昭和7年(1932)に始まった改修工事で10m近く高さを削ってなだらかにしたそうだから、かつてはなかなかの絶景だっただろう。

途中、歩道橋からは三浦半島方面を見渡すことができて気持ちがいい。もちろん選手はこの景色を見られないのだけれど、左右の建物の間から青空が抜けて見えて、尾根道ということをうっすら感じられるかもしれない。

歩道橋からの景色。写真中央より少し右寄りが真南くらい。
歩道橋からの景色。写真中央より少し右寄りが真南くらい。
進行方向を望む。富士山が見えるとしたら道の先より少し右手の方角だ。
進行方向を望む。富士山が見えるとしたら道の先より少し右手の方角だ。

このあたりは原宿、その先は影取町という地名で、どちらも立場(たてば)があったあたり。立場というのは、宿場の間が遠い場合や峠などの難所にある茶屋などが設けられた場所のこと。特に影取立場は鎌倉道と交差する場所で、交通の要衝でもあった。

原宿。尾根道をいく間にも多少のアップダウンがある。
原宿。尾根道をいく間にも多少のアップダウンがある。
影取町でじわじわと始まる下り坂。
影取町でじわじわと始まる下り坂。

その後、駅伝コースと旧東海道は国道1号を離れ藤沢宿方面に向かって南下する。横浜市を出て藤沢市に入ったあたりもかつては見事な松並木だったそうだが、1960年代の松食い虫の被害でなくなってしまったとか。道沿いには『並木茶屋』なる定食屋さんがあり、街路樹も茂っていて一部松が植えられているところもある。

国道1号を離れ、道がすこし狭くなった。
国道1号を離れ、道がすこし狭くなった。

さあ、前回(2区)の権太坂で上った台地からおりる時が来た。それが、遊行寺坂である。

道の先が……み、見えない……。
道の先が……み、見えない……。

1kmの間に約40mもの標高差があり、権太坂よりもずっと急な坂。まだまだ残暑が厳しかった取材時、日陰の下り坂とあって筆者はルンルンで歩くことができたが、これを走って上り下りすることを想像しただけで足に乳酸が溜まりそうな勾配だ。

ちなみに江戸時代には、街道の両脇に道標である一里塚があった。一里塚とはその名の通り一里ごとに盛土して榎や松を植えた塚、いわばランドマークで、木陰で休憩できるようにもなっていた。現在の道路はこれでも掘り下げて緩やかにしたようで、かつてはもっと急だったとか。乳酸どころではない、想像しただけで筋肉痛である。

坂の途中で振り返ったところ。写真左奥(坂の西側)に清浄光寺、通称遊行寺がある。
坂の途中で振り返ったところ。写真左奥(坂の西側)に清浄光寺、通称遊行寺がある。
坂を下った先に、藤沢市街が見える。
坂を下った先に、藤沢市街が見える。

【藤沢橋〜浜須賀交差点】平地をひたすら海へ向かう

藤沢橋。
藤沢橋。

遊行寺坂を下りきるとまもなく、境川とそれを渡る藤沢橋にさしかかる。実はこの手前で旧東海道は駅伝コースに別れを告げ、境川少し上流の遊行寺橋を渡って西へと進み、6つめの宿場である藤沢宿に至る。

藤沢橋から境川の下流方面を望む。川はそのまま南下して、江の島の脇で相模湾に注ぐ。
藤沢橋から境川の下流方面を望む。川はそのまま南下して、江の島の脇で相模湾に注ぐ。

実はこの区間、これ以降は旧東海道とは別ルート。藤沢橋付近から平塚中継所を過ぎるまで合流することなく離れた道をいくことになる。当初は旧東海道に沿った駅伝コースだったが、交通規制の関係で現在の県道30号(戸塚茅ヶ崎線)に変更され今に至るというわけだ。

駅伝コースは、橋を渡った先で若干の微高地を越え、さらにその後は藤沢跨線橋での勾配がある。

JR東海道本線などの線路をいくつも越える藤沢跨線橋。
JR東海道本線などの線路をいくつも越える藤沢跨線橋。
歩行者は跨線橋を通れなかったので、脇の踏切を渡る。跨線橋は横から見るとかなりの高さだ。
歩行者は跨線橋を通れなかったので、脇の踏切を渡る。跨線橋は横から見るとかなりの高さだ。

境川と並んで相模湾に注ぐ引地川を渡った後は、ひたすら平地を南西方面へ進む勾配のない道がつづく。台地上の尾根道を歩いていたときとは一味違う開放感があって、じわじわと海の気配がしてくる地域だ。

引地川に架かる富士見橋。わずかな高低差がある。
引地川に架かる富士見橋。わずかな高低差がある。
引地川の下流方面。どことなく海を感じるような、感じないような。
引地川の下流方面。どことなく海を感じるような、感じないような。
浜見山の交差点。
浜見山の交差点。

浜見山の交差点以降、道の左手(南側)には高砂小学校や広い団地が見えてくるが、この一帯は1960年代初頭まで砂丘が広がっていた場所。江戸時代には相州炮術調練場なる鉄砲場が設けられ、明治時代になると日本海軍の演習場として使用されていた。

1961年~69年に撮影された辻堂付近の空中写真(出典=国土地理院)。
1961年~69年に撮影された辻堂付近の空中写真(出典=国土地理院)。
浜須賀交差点の手前。
浜須賀交差点の手前。

【茅ケ崎海岸〜平塚中継所】実はじわじわ苦しい松林の道

国土地理院地図の標準地図に標高図・陰影起伏図を重ねて加工。
国土地理院地図の標準地図に標高図・陰影起伏図を重ねて加工。

浜須賀交差点まで来れば、いよいよ海岸沿いの松林の道。ここから国道134号に入る。空気が澄んでいれば行く手に富士山が見えるのだが、この日は霞んでいてすっかりその姿を消していた。

浜須賀交差点の歩道橋から西を望む。富士山が見えるときは、道の先、少し右に姿を現す。
浜須賀交差点の歩道橋から西を望む。富士山が見えるときは、道の先、少し右に姿を現す。
せっかくなので海岸に出てみた。江の島が南東の方に小さく見える。
せっかくなので海岸に出てみた。江の島が南東の方に小さく見える。

テレビ中継では必ずヘリコプターからの映像が差し挟まれるこの道。3区の選手は行く手に富士山を望めるが、太平洋側は松林に遮られていて海が見える機会は少ない。むしろ、概要で触れたように海風に悩まされることも多い場所で、風光明媚な景色がどうとか気楽なことを言っていられないのだ。

また、実際に歩くと、景色があまり変わり映えしないことの辛さも実感する。途中、茅ケ崎のサザンビーチ付近で一度途切れるものの、湘南大橋まで松林が寄り添う道のりは約5km。海を見てはしゃいだのも束の間、無心でずんずん進む時間がしばらく続いた。

この景色が延々と続く。
この景色が延々と続く。
たまに松林の間からチラ見えする海。
たまに松林の間からチラ見えする海。

右手に「HOTEL PACIFIC」なるラブホテルが見えたら、相模川が近づいてきた合図。相模川の流路は何度も変わっていて、付近にある中島や柳島という地名はその名残だとされる。また、3kmほど北には「旧相模川橋脚」なる遺跡があるが、これは関東大震災による液状化現象で鎌倉時代の橋脚がニョキっと現れたというもの。寄り道するには遠いので今回は寄らなかったが、旧東海道を歩くなら必ず立ち寄りたい場所だ。

茅ヶ崎市にある「旧相模川橋脚」は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災とその余震によって水田に突如現れた鎌倉時代の橋の橋脚です。当時の歴史学者の調査によって、この橋脚は建久9年(1198年)に架けられた橋の脚部分であると判明。大正15年(1926年)には国の史跡に指定され、平成24年(2012年)には関東大震災当時の液状化現象の痕跡を残す遺産として国の天然記念物にも指定されました。歴史遺産と天然記念物、二つの側面で重要な遺構となっている旧相模川橋脚ですが、ここには複数の言い伝えがあります。そしてどうやらその中には源頼朝の死因に関わっている話が存在するらしいのです。

相模川の河口地点に架かるトラスコ湘南大橋は全長698mあって、1区の難所だった多摩川を渡る六郷橋よりも長い。かつてあった辻堂の砂丘や、ここまで左手に広がっていた海岸の砂浜は、この相模川が運んできた砂が打ち上げられてできたもの。「おまえだったか」という気持ちで相模川を眺めつつ渡ると、藤沢市を出て平塚市に入る。

湘南大橋に差し掛かったところ。この上りが足にくる。
湘南大橋に差し掛かったところ。この上りが足にくる。
橋の上は海風も直にぶつかる吹きっさらし。
橋の上は海風も直にぶつかる吹きっさらし。

相模川を渡った後は再び松林の間を3km近く進み、花水川橋を渡って唐ケ原という交差点のそばが平塚中継所だ。往路の4区はこのまま下の写真左へ直進、復路の7区はルートが異なり写真奥の道からやってきて左折し写真右の花水川橋へ向かうことになる。

平塚中継所になる唐ケ原交差点。
平塚中継所になる唐ケ原交差点。

ちなみにこの少し先で駅伝コースと合流する旧東海道は、JR平塚駅の南西あたりが7つめの宿場・平塚宿。平塚宿の本陣跡には、神奈川銀行の平塚支店が立っている。

駅伝コースの数km北をゆく旧東海道の平塚宿周辺。
駅伝コースの数km北をゆく旧東海道の平塚宿周辺。

現地を歩いてこそ感じる海風の威力

区間のおよそ半分は海沿いを走る3区・8区。

地形に注目するとクライマックスはやはり遊行寺坂だが、国道134号で受ける海風の存在はやはり大きい。「今回の区間はビーチだあ~」と呑気に構えていた筆者だが、松林があるとはいえ海風にさらされっぱなしの道が約10km。知らず知らずのうちに体力を奪われているような感覚があるうえ、湘南大橋では帽子が吹っ飛ばされそうになってあわてて手で押さえることが何度もあった。テレビ中継での観戦や地図を眺めているだけでは実感しづらい要素だ。

1区・10区、2区・9区に引き続き、選手たちへの尊敬の念は高まるばかりである。

次回、4区・7区(平塚中継所~小田原中継所)編へ、つづく。

取材・文・撮影=中村こより
参考文献=『箱根駅伝「今昔物語」』(文藝春秋)、『箱根駅伝ガイド決定版2024』(読売新聞東京本社)、『地形がわかる東海道五十三次』(朝日新聞出版)、『箱根駅伝70年史』(関東学生陸上競技連盟)

東京箱根間往復大学駅伝競走、通称「箱根駅伝」。東京から箱根という長距離を往路・復路合わせて10区間に分け、10人で襷をつなぎながら走るリレー形式のレースで、正月の風物詩といっていいだろう。スポーツとしてのおもしろさは言わずもがな、レースの展開を左右する「地理」も箱根駅伝の大きな魅力のひとつだ。土地勘があれば中継に見知った景色が映って楽しい。距離感がわかれば選手たちの“速さ”を実感できる。地形を理解すると勝負どころもより深く理解できる。さらに、コースの大もとである東海道の歴史を知れば、その道のりがより立体的に見えてくるはずだ。というわけで、箱根駅伝のコースを「散歩の達人」目線で地理的に紐解くシリーズ第1回。今回はまず、1区・10区にあたる大手町~鶴見を歩いてみよう。
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