ゴールデンウイークは布団の中にいた。「フリーランスがわざわざ混雑のなか出かける必要はない」と思想を垂れる俺を置いて、家族は連日どこかへ遊びに行っている。俺は視界から世界を外し、息を殺しながらひたすら仕事と惰眠に勤(いそ)しむ。
目が覚めたら5月6日。ゴールデンウィーク最終日の昼過ぎだ。俺は初めて後悔した。何もしていない。世の中の人たちが、よろこびや思い出や、心の栄養など何かしらを手にしているのに、俺にはなにもない。何かしなければ。俺は失った5日間を取り戻すべく都電荒川線に飛び乗る。巣鴨新田から大塚駅前が近づくとフェンス沿いに『ぼんご』の行列が見えてくる。ああ、いつの間にこんなことになってしまったのだろう。
創業1960年。大塚に『散歩の達人』編集部があった頃、俺がこの街に住み始めた頃は、街で人気のおにぎり店程度だった。2回ほど食べたこともある。おいしかった。ふわふわで大きくて具が隅々まで入っていて。また食べたいなと思っていたら、いつの間にか「日本一行列ができる」おにぎり店としてその名を全国に轟(とどろ)かせていた。今ではお弟子さんたちのおにぎり店が各地で成功し、ラーメンの二郎系のように「ぼんご系」なんて呼ぶ向きもある。
タピオカのキャッサバ嬢がお茶を引き、ディズニーが有料で待ち時間を短縮しはじめた今、行列の最前線は『ぼんご』だ。「ゴールデンウイークに何をした?」に対する完璧な返答である。2022年に移転した大塚の本店の前には、雨の日も雪の日も驚くほどの行列だ。地元のアドバンテージとして「行列がない日があれば」と狙ってはいるが、そんな日は一度もない。開店前から行列がはじまり、夜に「行列が少ない」と駆け込めば閉店だ。土・日とゴールデンウイークは3~8時間待ちも辞さないという、もはや東京北部最大の観光スポットと化している。
駅前の『山下書店』は2階のロイホと共に10年以上贔屓(ひいき)にしている書店だ。いわばホーム。だが、俺の本は一冊もない。入り口にぼんご本の特設コーナーが用意されている。ざっと見ただけで100冊以上。売れる本なら徹底的に置く弱肉強食の世界だ。せっかくなので購入する。なるほど。本はこうやって売れるのか。
15時。直線距離で80m、目測で「3時間ぐらい」という行列に安堵して並ぶ。すぐに雨が降ってきた。「ぼんご誘導員」というビブスを付けた店員らしき人が、ビニール傘を持ってきてくれる。行列店なのに、思い上がりもなく、全体的に気に掛けてくれるのがわかり、とてもうれしい。
並んで1時間が経ったが、進んだ距離は10m弱。それも諦めて離脱した人の分しか進んでいない。
「電話で持ち帰りの注文が殺到している」。後ろに並んでいる人たちからそんな噂が聞こえてきたと思ったら、次々と並んでいる人が離脱していった。デマは人間の不安に付け入り、真実よりも早く強く広がるというが、相手がおにぎりでも例に漏れない。惑わされず、考えず、ただ自分を無にして並ぶ。
後ろが2人だけになった。栃木から来た中山夫妻。旦那さんの実家は米農家で奥さんの実家は宇都宮で『HUT』という米がおいしい洋食店を営む。おいしいおにぎりが食べたくてお台場観光のついでに来たそうだ。「せっかくなので」と並びはじめた感じのいいご夫婦は、時間を持て余したのか、コンビニに行って氷結を買ってきていた。「なんでおにぎりごときで3時間も並ぶの?」「コンビニで売っているのとなにが違うの?」。酒で口が軽くなったのか、襲いかかる疑問が爆発している。いや、この煩悩を乗り越えた先に、極楽浄土のおにぎりがあるのだ。米に一家言あるという旦那さん「『ぼんご』のコシヒカリは粒が大きくて甘みがある」「握らないから口の中でほどけるらしい」と楽しみにしていましたよね。奥さんあなたは「具だくさんでひと口目からおいしいの」「すじこ+さけはマストよ」と下調べをしてきたじゃないか。一緒に信じましょう。
マインドフルネス・おにぎり。世界で最もおいしい米結晶
長く、ただひたすら待つ時間。皆、脳内で「たかが、おにぎり」を打ち消し、あるかないかわからない、極楽のおにぎりを信心する。
「ああ、それはもうおいしいですよ。ぼくは3カ月に一回は必ず来ますから」。後方に極楽を経験した先達がいると噂になれば、我々は「やはりこの先に極楽はある。がんばろう」と歓喜する。
誘導員の先導でカルガモのように横断歩道をわたり、バイタルエリアに侵入すると、ついに店員さんからメニューが配られる。おお、奥さんマストの「すじこ+さけ」「卵黄+そぼろ」は、ランキング表もツートップだ!
ラストスパート。『ぼんご』に隣接する“うまい物の頂点を目指す酒場”『ロッキーカナイ』が急に店の外に向けて『アイ・オブ・ザ・タイガー』を流しはじめた。
一体どうなってんだ。まわりの人たちがいきりたちはじめたように、そわそわとしはじめているのがわかる。いよいよだ。
時刻は17時半。ついに店の前の簡易イスまで来た。あと30分。店の中が見える。カウンターのみ9席。ずらり並んだ具材の前で、大将がせっせとおにぎりを握る。
時刻は18時。大塚に夜の帳(とばり)が下りてきた。ああ、おなかすいた。
文=村瀬秀信
『散歩の達人』2024年6月号より