こんな僕にも東京に出てきてから3つ、かけがえのない店ができた。

ひとつは20代中盤に通った堀切菖蒲園駅前の「哈爾濱餃子(ハルピンギョウザ)」。死ぬほどうまい肉まんと餃子は当然として、ハルピン出身のお父さんとお母さんは東京の父母のようで、貧乏時代からうちの夫婦を本当にかわいがってくれた。町を離れて結婚した時も、子供を連れて行った時も、心からよろこんでくれた。コロナになったあたりから店を閉めがちになっていたが、つい先日閉店を知った。お店がなくなって涙が出たのははじめての経験だった。

ふたつ目は歌舞伎町さくら通りにあった「球寿司」。憧れの行きつけ個人寿司店なのに、野球狂の大将らのおかげで、寿司そっちのけで野球の話しかしなかった。それが心地よかったのだけど、2011年に火事で全焼して廃業。風の噂で大将ほか全員無事だと聞いて安堵した。

そして、最後の店が2023年いっぱいで閉店した。チェーン店だけど、なにがあっても絶対にこの連載では取り上げないと決めていた「千成ラーメン 西巣鴨店」。俺の店だ。きっとそう思う人は何人もいるのだろう。誰にも知られたくない居場所。いや「来い」と言われても、良識ある家族連れや危機察知能力の高い人はまず近づいてこない。そんな入りづらさがあった。

その昔から夜中の明治通りを走っていると、デコトラみたいな過剰装飾と思わしきラーメン屋があることには気がついていた。

2013年に西巣鴨の地に住んでからも、数カ月は遠巻きに静観していたのだ。なんで入ってしまったのだろうか。カウンターのみ10席ばかり、油まみれの店内。きったないコショウの容器。それでいて、店内にはジャズが流れている。ラーメン屋とは名ばかり、酒とつまみが異常に発達していた。メニューなんてあってないようなもので壁にはタコウインナーとか思いつきみたいなつまみの名が隙間なく貼ってあり、クリスマス後にはなぜか高級シャンパンもあるし、まぁ、食材さえあればなんでも出てくる可能性という名のラーメン屋だった。

この西巣鴨の「千成ラーメン」は「株式会社秀穂’」が運営するフランチャイズだ。「ザ・千成」など野菜多めのラーメンが人気で、フランチャイズへの懐も広く一時は結構な数が出店していた。

「ラーメンだけはいじれんけど、それ以外やったら何やってもええんですわ」

関西から来た元ボクサーのマスター。一見コワモテっぽいけど、愛想が良くて優しくて。夜の6時頃店を開けて、夜中の3時、4時までずっとひとりで店を切り盛りする。カウンターは大体満席。本当によく働く人だった。

この店に行く時は、決まって誰かに話を聞いてほしい時だ。家でごはんが出ない時。奥さんとケンカした時。実家に帰られた時。子供の少年野球のチームは近所だとどこがいい? 本が出た。失敗した。才能がない。もうやめる。深夜ラジオの出演のあとは決まって店の前でタクシーを降ろしてもらい「向いてない」とくだを巻いた。

マスターと話がしたいから。行く時間は決まって夜中の1時、2時、3時。平気で店に行った。「そろそろ終わりです」なんて言われたことはない。おそらくみんなにそうしていたのだろう。子供の少年野球の関係で近所の父兄の人と知り合うようになって知った。あのコロナ禍で誰もが行き場を失った時だって、マスターはできる限り居場所を作ってくれた。

働き過ぎたのだろうか。2023年の春ごろ、西巣鴨の夜をずっと照らしていたあの店が開かなくなった。同じく常連だった少年野球の監督に聞くとマスターが腰を痛めて暫く休業するという。夏には復帰すると聞いていたが、それでもシャッターが再び開くことはなく、年内で店を引き払うことが決定したそうだ。

久しぶりに自宅に戻ると、すでに看板などが撤去されていた。悲しい。
久しぶりに自宅に戻ると、すでに看板などが撤去されていた。悲しい。

いつだって、なくなってから思うのだ。ありがとうと言えていない。連絡先も知らなければ、店が終われば会うこともない。それが礼儀なんだと思っている。だけど、いま俺の心には何者にも埋められない穴が空いている。何億人といる人の中で出会い仲良くなれる人が数少ないように、心を許せる店に出会うことは人生の目的や幸福みたいなものと深くかかわっている。そしてそれはチェーン店であろうと同じ。

安息の地。俺のサイン色紙と全著作が置いてあった世界で唯一の店。いつだって逃げ込める、行きつけの店がなくなってしまった。さびしい。俺はこの先、どうやって生きて行けばいいのだろうか。

文=村瀬秀信
『散歩の達人』2024年2月号より