平日の午前中に客は途切れず
「東新宿」と聞いて、どんな街かイメージできる人は少ないだろう。駅の周辺にあるのは、西に明治通りを挟んで国際タウンの大久保。北に大久保通りを挟んで戸山団地。南は職安通りを越えるとすぐ歌舞伎町。すぐそばを走る抜弁天通りを東に行けば、古い寺社の多い若松町など。それらに囲まれたエアポケットのような住宅地だ。ひと言で言うと地味な土地である。
そんな街に『パン家のどん助』はある。こぢんまりとした店ながら、朝7時30分のオープンからお客さんが続々とやってきて、11時までに行かないと目当てのパンにありつけないこともしばしば。しかもお客さんは近隣住民、出勤前の働き人だけでなく、遠くからやってくる人も多い。平日の午前中なのに!
店に入るとあんパンやサンド類などの定番からハード系にタルトなど甘いものまで、多種多様なパンが出迎えてくれる。しかも見た目からして、ものすごくそそられる。見るからに手ごわそうなインパクトを与える、ジューシーウィンナーパン。食べる前から気持ちは高揚し、ひと口かじりつけばあふれる肉汁としっとりした生地の絶妙なハーモニーに、興奮度は増していく。これが味わえるなら、平日の午前中に東新宿まで行ってしまうのも分かる。
今では人気店となった『パン家のどん助』だが、開店当初はなかなか苦戦したという。店を始めたのは2001年。
店主の齋藤健太郎さんは、高校時代に『リトルマーメイド』でバイトしたことでパンに興味を持ち、パン職人を目指して専門学校に入学。『ブランジェ浅野屋』で働き、24歳の時に独立して店を始めた。健太郎さんが6歳の頃まで、今の『どん助』がある場所で、祖父と父が「藤屋」というベーカリーを営んでいたこともあり、「またここでやってみよう」と始めたのだという。
甘かった開店当初の見通し
しかし、始めてみたものの、当初はかなり苦戦したという。理由は分かりやすく、「若かったから、あまり深く考えないでやっていたんです」。『浅野屋』ではよく売れていたから、同じようにやっていれば売れるだろうと考えていたが、そんな甘いものではなかったようだ。
なんとパンが売れるようになるまでかかった時間は10年。その間「町のパン屋」というスタンス、パン自体は変えなかったのだが、見た目を大きく変えたことで、パンが売れ始めたという。健太郎さんの妻の由樹さんが、当時を思い出しながら話してくれた。
「最初はあんパンも、抹茶あんパンとか一生懸命考えて、夢みたいなパンを作っていたんです。でも、これが売れなくて。あるときあんパンのせていた桜の塩漬けを塩漬けを切らしてしまって、ケシの実をのせたんですね。そうしたら、桜漬けは売れなかったのにそれが売れたんですよ。見た目で分かりやすいほうが売れるんだと、そこで気づいたんです」
確かに、人気メニューのジューシーウィンナーもひと目で「それ」だと分かる。また、やはり人気のメンチサンドも同様。
メンチサンドは健太郎さんの自信作で、手作りメンチが使われているのだが、当初は包んだりドッグにしたりと試行錯誤していたそう。結局、豪快に挟むだけ、という作り方に落ち着いたそうだ。
手作りにはこだわりたい
わかりやすさが徐々に受け始めた『パン家のどん助』。時代の変化もそれを後押ししていた。2010年頃にはSNSが普及し始めたこともあり、辺鄙な場所ながら、ネットの口コミでお客さんが増え始めた。現在も店自体は、ホームページもSNSのアカウントも持っていないのだが。
さらにさらに。最近は新宿や大久保に歩いていける距離とあって、周辺に民泊施設が急増。2023年から2024年にかけてのインバウンド需要増加もあり、そこに泊まる外国人旅行者のお客さんが急激に増えているという。齋藤さん夫妻の地道な改良、それにプラス社会の変化もあり、『パン家のどん助』は東新宿という場所にして、人気店となったのだ。
現在『パン家のどん助』の定休日は日・月・火で、週4の営業となっている。体力的な問題で以前より休みを1日増やしたのだが、これでもキツイようだ。パンの種類が多いうえに具材のほとんどを手作りしているため、3日の休みのうち2日は仕込みに費やさざるをえず、休めるのは実質1日だけ。年齢的にもしんどいというのだが、それでも健太郎さんは手作りにこだわっている。
「それがうちの味になると思うので。カスタードでもコロッケでもメンチでも、ずっと手作りで続けられたらいいなと思っています」
いろいろな種類を作って安く売りたい、しかも手作りでという思いを持ち続けている健太郎さん。その言葉を聞きながら、由樹さんは「ついていくのに必死です」と苦笑いしていた。
東新宿という地で、強力かつ貴重な個性が輝く『パン家のどん助』。体をいたわりながら、どうか長く続けてほしいものだ。
取材・撮影・文=本橋隆司