取材・文=山内聖子
呑む文筆家・唎酒師。1980年生まれ盛岡市出身。日本酒歴は20年以上でさまざまな媒体で執筆。著書に『蔵を継ぐ』(双葉文庫)、『いつも、日本酒のことばかり。』『夜ふけの酒評 愛と独断の日本酒厳選50』(いずれもイースト・プレス)がある。
口うるさい私を満たしてくれる一軒、月島『手盃蛮殻』
なぜ日本酒を飲むのか。気がつけば、公私を一緒くたに人生の半分以上を日本酒と共に生活してきた私が、もしそう聞かれたら、体がゆるむから、と答えたい。
22歳で体験したひと口の日本酒がきっかけで今がある私は、もともと日本酒の味が好きだし、どんなつまみにもなんとなく合うおおらかさも、惹(ひ)かれる造り手が多いことも、日本酒を飲み続けている理由ではある。しかしそれ以上に、体がゆるむ感覚は他の酒には代え難い気持ちよさがあり、仕事後の疲れて張り詰めた体を解放させるところが、たまらなく好きなのだ。
だからこそ、プレミアム銘柄ばかりを揃えた気が張る高級路線や、妙に凝ったつまみを出す店、料理との相性をいちいち提唱してくるところは、知識欲は満たされるかもしれないが、飲んでいてゆるまないから苦手。もちろん店のあり方は無数にあっていいし、否定はしない。ただ、風呂に浸かるように日本酒で安らぎたい私にとって、背筋が伸びる店は疲れるし、考えることを求められる酒場も日常から遠のく。日本酒選びも肴も奇をてらわず、ふつうにちゃんと旨い店が理想なのだ。
そんな口うるさい私を満たしてくれる一軒が、『手盃蛮殻(てっぱばんから)』である。
「ちびりちびり飲みながら、ボーッとできるのが日本酒のいいところ。相性などと難しいことを考えずに、大人が自由に酒と肴を楽しめる酒場でありたいんです」と、店主の大野尚人さんは言う。
その言葉にうなずきながら、「喜正」や「鷹来屋」など落ち着いた旨味の酒をちびちび、いや無心でぐいぐい飲み、匂いにそそられる香ばしい穴子のぬか漬焼きを噛み締め「間違いない」と、ため息をつくこと数回。脱力である。
『手盃蛮殻』[月島]
門前仲町の人気店『沿露目(ぞろめ)』や『酒肆一村(しゅしいっそん)』の店主・大野さんが2022年、古典的な酒亭をテーマに長屋を改装して作った新店。営業は複合スタイルで、1階はホッピーとシュウマイなどが立ち飲みで楽しめるが、日本酒好きは迷わず2階へ。もちろん1階とハシゴも楽しい。
渋谷『えんらい』は、気安く燗酒に手が伸びるのがいい
気楽に燗酒を飲みたいときに暖簾(のれん)をくぐる『えんらい』も、私にとって体がゆるむ酒場。カウンターにずらりと並ぶ一升瓶を見れば、純米酒の燗酒推しということは一目瞭然だが、「白鷹」のような大手の本醸造や、本格焼酎にサワー類などもあり、押しつけられることなく気安く燗酒に手が伸びるのがいい。
店主の坂嵜透さんは「燗酒は飲み進めるうちに、飲んでいることを忘れるほど体に染みてくるのが魅力です」と言うが深く納得。酸っぱい白菜漬けをつつきながら、熱々のおでんを頬張り、何も考えずに燗酒をすすればたちまち旨い。至福である。
『えんらい』[渋谷]
旨い燗酒がきっかけで日本酒に目覚めたという店主の坂嵜さん。日本酒は燗酒タイプが中心だが、「間口の広い店にしたい」とレモンサワーやハイボールなど他の酒類も豊富で、気負わず日本酒を飲めるのが魅力だ。料理長の池ちゃんこと池田歩さんの、酒に寄り添う滋味な肴も最高。
荻窪『酒処 かみや』の、一家が醸し出す穏やかな雰囲気
1955年創業の『酒処 かみや』にいたっては、私にとって日本酒酒場のホームと呼びたい。親子3代で店を切り盛りする小山さん一家が醸し出す穏やかな雰囲気は、それだけで心が和み、日本酒の吸い込みが激しくなる。
「量を飲めないけど日本酒の味が好きです」という、日本酒担当の女将である由香さんが選ぶ「日高見」や「天狗舞」などをサッといただき、創業時からの定番「高清水」をじっくり飲むのがお気に入り。新鮮な貝類の刺し身も牡蠣のバター焼きも自家製のぬか漬けも、あるいは何を頼んでも、量も味つけもほどよい塩梅で無理なく日本酒を進ませる。
私の体は終始ゆるみっぱなしです。
『酒処 かみや』[荻窪]
浅草の『神谷バー』からその昔、屋号を受け継いだと言われており、小山一家が3代総出で店を営む。新鮮な魚介類を使った肴の数々や野菜ものの小鉢など、メニューが豊富で目移りは必至。揃える日本酒は、王道の「高清水」から「日高見」などの人気銘柄まで幅広い。
撮影=オカダタカオ
『散歩の達人』2024年1月号