魚料理屋から転身したそば屋

にぎやかな谷中ぎんざ。特に週末は観光客でごった返す日もあるほどだが、ちょっと脇道に入るだけで静かないい店に出会える。そのひとつが、商店街の中ほど、細い路地を数歩入った先にある『手打ちそば 千尋』だ。

竹の葉の間にのぞく「手打ちそば」の看板。
竹の葉の間にのぞく「手打ちそば」の看板。

白い暖簾をくぐって中に入ると、まず目に入るのは店内中央の印象的なコの字カウンター。ぐっと照明を絞ってあり落ち着いた老舗酒場のような空間だが、それもそのはず、ここはもともと魚料理屋さんだったお店なのだ。

奥の壁に飾られている立派な「千尋」の看板は、店主・川井さんの手作り!
奥の壁に飾られている立派な「千尋」の看板は、店主・川井さんの手作り!

「2013年からそば屋になりました」と話すのは、店主・川井清輝さん。

2003年頃からここで魚料理屋を営んでいたが、ランチのみの営業に切り替えることになり、そば屋として再スタートを切った。「魚料理屋だった時も、最後の1年はそばを打って無料で出していました。お客さんから『そろそろお金をとってもいいんじゃない?』と言われるくらいになって、じゃあそばで行こうかなと」。

基本を教えてもらったあとは自己流で研鑽を積んだそば打ち。最初は二八から始め、「そばは数を打たないと」と話す通り毎日のように励んできたという。早速、おすすめのせいろそばをいただくことにした。

香りを噛み締めたい、粗挽きの十割そば

せいろ1100円。追加(おかわり)は900円。
せいろ1100円。追加(おかわり)は900円。

信州産の引き抜き粗挽き粉100%の十割そばは、歯応えがありながらもしっとりとした食感。噛むほどにふわっと鼻を抜けるそば独特の香りに、思わず目を閉じて味わいたくなる。

つゆは、そばのお尻にちょんとつけてずずっとたぐる辛汁と、たっぷりつゆにくぐらせる甘汁の2種類から選ぶことができるが、おすすめは辛汁。江戸前の真っ黒な辛口のつゆをちょっぴりつけて、双方の香りを堪能しよう。

まずはそばだけで食べてみると、よりそばの味を楽しめる。
まずはそばだけで食べてみると、よりそばの味を楽しめる。

つゆに使うかえしも、そばに合うものを求め40回以上配合を変えて試行錯誤したという。かけそばのつゆは出汁の量で調整するお店も多いが、『千尋』ではかえし自体も全く別のものを用意するというこだわりっぷりだ。

「そばは難しい世界ですね。年齢を重ねないとわからない世界かもしれません」と川井さんは笑うが、その熱意が実を結んでいるからこそ、しっかりとおいしさに表れているのだろう。

そば前も粋に楽しみたい

すっかりそばに夢中になってしまったが、改めてメニューを眺めると、そば前もかなり充実している。実際、週末は一杯飲んでからそばを注文するお客さんも多いという。「本来そば屋は昼酒の文化。ランチでもお酒をぜひ」。酒肴に魚を使った一品が多いのも、もともと魚料理屋だった『千尋』ならではの楽しみだ。

そもそも、そばを始める前はなぜ魚料理だったのかと思えば、川井さんは逗子の出身で、漁師の息子さん。飲食店の前は魚屋を営んでいたそう。「千尋」は、水深などを測る単位「尋」から「永遠に」という意味を込め、仲の良い漁師さんにつけてもらった名前なのだ。

川井さんが独立してお店を開業することになり、お世話になっていたスーパーの大家さんが所有していたこの物件と巡り合った。それから20年、谷中はすっかり観光地になり「このへんの様子もだいぶ変わってしまいましたね」と川井さんは話すが、『千尋』が目指すのは粋な食べ方をできる、そば屋の本来の姿だ。

「もともと、さくっとお腹を満たす食べ物。ささっと食べて席を立つような、“粋”で味わってもらいたいです」

昼から軽く一杯ひっかけて、そばをすすり、また歩き出す。谷中の街歩きにぴったりではないか! 白く濁ってとろみのある濃厚なそば湯を味わいながら、今度また来るときは何をいただこうか……と早速思いをめぐらせてしまった。

『手打ちそば 千尋』店舗詳細

住所:東京都台東区谷中3-13-22/営業時間:11:30~15:30(売り切れ次第終了)/定休日:不定休/アクセス:地下鉄千代田線千駄木駅から徒歩4分

取材・文・撮影=中村こより