住宅街の静かな路地にあるパン屋さん
表通りから何本も入った、細くてひっそりした路地に面している『神田川ベーカリー』。2017年2月のオープンから6年以上経った現在も、近くに住む人が「こんなところにパン屋さんがあったなんて!」とやってくるという。
建物の外からガラス越しにパンを見て、お店の人に取ってもらう対面式。接客は1対1なので、店の前には何人か並んでいることが多い。先頭の人がパンを選んでいる後ろ姿の脇に視線をやって、どのパンを買おうかとワクワク待つ時間も楽しい。
「お客さんが迷っていたりすると、よくお話しします。場所が狭いから対面式になったのですが、当初から大切にしたいと考えていたお客さんとの密なコミュニケーションにつながりました」と店主の嶋田玲子(しまだれいこ)さん。
嶋田さんはパン屋店主となる前、会社勤めを経て、雑司ヶ谷でカフェを営んでいた。その嶋田さんが『神田川ベーカリー』の店主となったのは、店のある建物で地域の人たちに繋がるなにかを始めたいと建築家の夫とともに考えたから。
「この建物の活用方法を考えていたとき、この辺りにパン屋さんがあったらうれしいねと話していたんです。でも私も他のスタッフも、パン屋の経験がなかったので、知り合いのパン屋さんに2~3週間、集中してパンづくりを教わりました」
そのときパンづくりを学んだのは嶋田さんが営んでいたカフェのスタッフ、夫が営む設計事務所のスタッフ、合わせて6人ほど。レシピも譲り受けて、『神田川ベーカリー』をオープンさせた。
たった3週間でパンづくりを? と驚くが、嶋田さんは未経験でカフェをオープンし、子育てをしながら6年に渡って経営した実績の持ち主。カフェを開いたときも夫妻の間では「考えるより、動け」という言葉が交わされたそうだ。
人通りが多いとは言えない路地にあるお店は、オープンからしばらくは、なかなか存在に気がついてもらえなかった。しかし次第にクチコミやSNSによって、遠くからも人が訪れる人気店に成長。近所の人たちにとっては、商品棚のすぐ近くまで自転車を押してきたり、犬を連れたままパンを買ったりと、気兼ねなく立ち寄れるパン屋さんだ。最近は観光客らしき外国人がやってくることも珍しくないという。
湯種を使ったもっちりずっしりしたパンに季節の素材を組み合わせて
『神田川ベーカリー』のパンは、もっちりと柔らかく、高加水のパン生地を使ったものが多い。その秘密は、湯種を使った製法。高加水のため、ずっしりと重いのも特徴だ。
生地をストレートに楽しみたいなら、岩塩をのせた塩ぱんがおすすめ。バターをたっぷり巻き込んで焼いているので、窯の中でバターが染み出して底の部分がカリッとして、もっちりしている部分とのコントラストが楽しめる。
定番メニューの中でも人気のパン、豆乳フランスは自慢の品。軽い食感でやさしい味だが、噛んでいると味が膨らむかのような感覚がある。
ソーセージエピも人気。エピというとフランスパン生地に切れ目を入れて、細長い麦の穂を模したものが多いが、『神田川ベーカリー』のソーセージエピはまるで花のよう。ちぎりやすいと好評だ。
一方で、根強い人気のハード系のパンは、外国産小麦を厳選。「色々な小麦で試してみたんですけど、今使っている小麦でなければ、納得のいく味にならなかったんです。ちょっと高い粉なんですけど」と嶋田さん。
ハムとバターのバゲッドサンドは、粉の味と香りを感じる香ばしいバゲットに、旨味たっぷりのハムと無塩バターが挟み込まれている。
アイシングが印象的なのシナモンロールは、マスカットレーズンがたっぷり入っていて、コーヒータイムにぴったりだ。
『神田川ベーカリー』には、大切な人に届ける一皿の手料理というコンセプトがある。旬の食材を食べて欲しいと、毎月季節のパンが入れ替わる。
初夏のメニューのひとつ、枝豆とゴーダチーズのフォカッチャは、むっちり水分量の多い生地に枝豆のほくほくした食感が楽しい。
歩の途中に訪れる人も多い『神田川ベーカリー』。お店の前にはウッドデッキがあるが、これはコロナ禍の間にできたものだ。「児童館も誰かの家にも行くのが難しい時期があったので、この場所でパンを食べながら、ちょっとおしゃべりしてもらえたら」と設置された。オリーブの木が木陰をつくってくれる。
お店ではコーヒーや冷たいドリンクも販売されている。荒川線に乗る小さな旅や、神田川沿いや近隣の庭園散策の途中で、パンでひと息入れたり、お土産として買い求めたりするのもいいだろう。
取材・撮影・文=野崎さおり