琴似(ことに)に来たのは久しぶりだった。ぼくの家は東区にあるから、東西線で一本とはいえ反対側にあるこの街までくることは少ない。西区のなかでは栄えている街で、SNSを見ているとおしゃれで美味しそうな店があるのをよく目にするけれど、外食ができないご時世なので今日まで足が向かなかった。

本当は今日も一日家にこもっているつもりだった。昼飯を食べるときまでそのつもりだったのだ。ぼくは母親の作ってくれた、野菜炒めのたっぷりのったインスタント麺をすすりながらテレビを見ていた。ぼくと母親が食べ終わるころにやっと親父もやってきて、すっかり伸びているであろうラーメンを食べはじめる。母親は麦茶を片手にテレビに文句を言い、親父もつられて画面の方を向く。

並んだ両親の顔をなにげなく見ていて、急に、老けたな、と思ったのだ。照明の関係だろうか、と切れている蛍光灯がないか思わず上を見たのだが、いつもと変わらなかった。ぼくが四年東京に行っているあいだに、両親の顔に刻まれた皺ははっきりと深くなっていた。ずっとそのことに気がつかなかったなんて、ばかみたいだ。ぼくはこっそり部屋に戻ったけれど、やることといったら無意味にSNSを更新するばかりでかえって気が滅入り、しかたなく外へ出ることにしたのだった。

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扉を開けると、人のよさそうな店主が席へ案内してくれた。それほど広くはない店内に並べられた十脚ほどの椅子には既に何人かの先客がいる。座席の奥には、店内の横幅をほとんど埋めるほど大きく広げられた画布があって、自然と目がいった。短歌のイベントだという印象が強かったけれど、そういえばライブペイントもやるのだった。

自分が出演するわけでもないのになぜだか緊張して、そわそわとあたりを見回してしまう。片づけられているとはいえ、この場所はやはり美容室なのだった。店主がなにか機材を調整しているのは頭を洗われる時に座る可動式の椅子だし、目を横にやれば鏡が等間隔に並び、その前にはヘアケア用品のサンプルが置かれている。鏡の前に椅子がないと言うことは、いま座っているこの椅子はあそこから持ってきたものなのだろう。

画布の裏から長い黒髪の女性が出てきて、床に敷いた新聞紙の上に大小さまざまな筆を並べはじめた。そのすぐ後ろから出てきたのが、広末さんだった。しゃがみこんで、なにか打ち合わせをしている。客席のほうを振り返ったタイミングで軽く会釈すると、驚いたような顔をして、小さく手を振ってくれた。

まもなく時間になった。店主が挨拶して、イベントの概要を説明する。それでは、の言葉とともに、静かだった店内に音楽がゆっくりと流れはじめた。髪の長い女性が画布の前に立つ。墨を含ませた筆を画布に突き立てたかと思うと、ぐっと線を引っ張る。線はたっぷりとした液だまりから小さな筋を引いて垂れていくが、長く伸びた先端の方では次第にかすれていってしまう。画家の手がまた新たな線を生む。踊るように描かれた幾本かの線が重なっていき、塊となったところで、店主が立ち上がった。朗々とした声で紡がれる言葉を音楽のように捉えたあと、意味がやってきて、そうかこれは詩なのか、と遅まきながらに理解した。

駆ける四つ足の動物。そう読み上げられたとき、確かにそのような形を作られていた墨の塊は、またさらに線を重ねられて、丘のような、草原のようななにかになっていった。つぎつぎと線が重ねられていき、なにか判然としなくなったところで、詩は終わった。

流れる音楽のテンポが速くなっていく。画家は筆を捨て、赤い絵の具を手にのばした。指が上から下へぐーっと引っ張られていって、煤けていた世界へ鮮やかな一条が差したが、色はやがて黒に混じり、濁っていく。広末さんが立ち上がった。緊張した面持ちで、紙を持つ手が震えている。

広末さんの短歌は、店主の豊かに広がった詩の世界と比べると素朴で、もしかしたら拙いのかもしれなかった。声は細く、小さく、震えて、いつもの気弱な印象をまるで覆さない。でもそこに必死さを感じて、ぼくはつばを飲みこんだ。

絵はまだ流動していく。赤い線が次々に足されていく。傷のような。雨のような。抽象的で、なにを感じ取ればいいかわからない。わからないなりに、わかりたいと思う。わからないことがもどかしくて、でも、簡単にわかってはいけないのかもしれなかった。割れた花瓶、と広末さんが言うのが聞こえた。素手でガラス片をかき集める広末さんのイメージと、綴じられた書類をめくるうち指を切り、救急箱から絆創膏をもらっていいか聞きに来た広末さんの記憶が重なって、意識がふっと職場のオフィスに飛んだ。誰もいない、暗い部屋のカーペットの片隅に、ひとしずくの血痕。出番を終えた広末さんは、ほっとしたような、でも張り詰めた顔で座ると、画布に垂れていく赤いしずくに目を注いでいた。

気づけばイベントは終わっていた。観客がひとりずつ感想を言うことになったけれど、ぼくは最後までうまく言葉をまとめられないままで、恥ずかしかった。

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出演者や馴染みの客らしきひとたちが互いに話をしているなか、荷物をまとめているぼくに広末さんが声をかけてくれて、店主に職場の人間として紹介を受けた。店主のことをすっかり詩人だと認識していたけれど、美容室の店主なので、当然のように美容師でもあるわけだった。次は髪を切りに来て下さいね、と笑いかけられ、ぼくは混乱した。職場での広末さんの様子を尋ねられ、今日と同じで頼りになる人です、と笑うと、広末さんは目を丸くしてすかさず言った。

「林さんこそ、とても頼りになるんです。面倒がらずちゃんと話を聞いてくれるし、なんでも調べて丁寧に答えてくれて。みんな林さんには感謝してますよ」

それは当然、社交辞令であったと思う。その言葉はすぐに流され、広末さんはそのまま店主とイベントの感想を詳しく話し始めたので、ぼくは途中で引き上げて店を出た。

結局、ぼくは柳田の言うとおり保身まみれの人間で、広末さんたちパート職員を気にかけているような顔をしながら、やっぱり面倒だと思っている。数年どころかあと数ヶ月も経てば自分の仕事で手一杯になり、先輩と同じように彼女たちの言葉を適当にやり過ごすようになっているかもしれない。それでもそうなりたくないと思っているぼくのことを、ぼくのいまを、間違っていなかったと言ってもらえた気がして、うれしかった。

琴似の街はやわらかな朱色に染まっていた。国道へ抜ける栄通りには居酒屋の看板がずらりと並んでいるが、やはり街は眠っているかのように静かで、でも少し張り詰めている。イベントの高揚感が残っていて、なんだか歌い出したくなった。学生のころを思い出す。毎日楽器を練習して、何度もステージに立って、照明を浴びた日々。拙かったかもしれないけれど、何者にもなれなかったかもしれないけど、ぼくは必死だった。そうだ、ちゃんと必死だったのだ。いまだってそうだ。ちゃんともがいている。迷いながら、わからないと思いながら、必死に考えて、進むべき道を選んでいる。

ぼくと同じく頑固で青い友人たちに、もう一度連絡をしてみてもいいと思った。街が目覚めたら、いろんなところへ行きたい。いまはそのために、静かに準備をしておこう。帰宅したぼくは何年かぶりにギターを手に取った。さびついたギターの弦はひどい音を奏でる。それでも併せて歌うぼくの歌声は、そんなに悪いものではない気がした。

文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。