林さんはそつなく仕事をやる人だから出向メンバーに選ばれたのは頷けるけれど、煙草のにおいをぷんぷんまき散らし、髪はぼさぼさ、スーツはヨレヨレ、話し方はへにゃへにゃな部分は新人のときから四年間全く成長しておらず、一年とはいえこのまま東京でしごかれるなんて大丈夫なのかと心配になる。

「広末さんは、もともと道外の人なんでしたっけ」

「そうですね、実家は神奈川の端の方です」

「ああ、ちょうどアパートは横浜に借りたんですよ。よかったあ、困ったら連絡できる人がいて」

「あのあたりは通勤ラッシュ、大変だと思いますけど潰されないようにしてくださいね」

「はは、気をつけます」

人の減ったフロアで最後の挨拶にと手渡されたヨックモックのシガールが、さっぽろ駅の改札で定期券を取り出すために鞄へ入れた手にあたった。わたしもそろそろ契約期間が切れてしまうから、次の職場を探さないといけない。半年あいだを空ければいまの職場の面接を受けてもいいと暗黙の了解になっているらしいが、生活のことを考えると仕事のない期間ができるのはちょっと厳しかった。

前の課長に、広末さんなら正職員登用の試験を受けてみてもいいと思うけど、と言われたのを思い出したが、すぐに頭を振って振り払った。わたしには難しい。たとえ受かったとしても、満足に仕事をこなすことはできないだろう。

このまま共働きでいくのかと思っていたのに、辞めちゃうのかあ。結婚していたころ、仕事を辞めると告げたら残念そうに呟いた上司の言葉が思い出された。名前も顔も忘れてしまっているのに、言葉だけは何度も蘇ってくるのだから、記憶というのは不思議だ。

東京か、と胸の内で呟く。かつて夫だった浜野くんと出会ったのは新卒で勤めた東京の会社だった。八年の結婚生活を経て、五年前に札幌で別れた。

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揺れたとき、わたしはキッチンで食器の仕分けをしていて、浜野くんはお風呂に入っていた。あとから地震の時間を調べたら、午前三時を過ぎていたから、ずいぶん夜更かしをしていたことになる。離婚することを決めたばかりで、ふたりともよく眠れない日々を過ごしていたのだろう。

わたしはとっさに食器棚を押さえつけながら長く激しい揺れに耐え、床を滑っていったスマートホンが不快な警告音を鳴らしているのをなすがままに聞いていた。収まったころに浜野くんが裸で脱衣所から飛び出してきた。NHKをつけてすぐはなにか別の番組をやっていたが、程なくして地震の情報を伝える画面に切り替わった。3.11のときと同じくらいだったな、と彼が呟いたのを覚えている。

わたしはそれに返事をしただろうか。詳しい震度は覚えていなかったが、帰宅ラッシュの東豊線に揺られながらいま手元のスマホで開いた「2018年北海道胆振東部地震」のページには、札幌市で震度六弱を観測したとあるから、たしかに3.11のときと同じか、もっと強いくらいだ。六弱だったのは東区で、あのときわたしが住んでいた西区は五弱とある。マンションの五階に住んでいたから、もう少し揺れを大きく感じたのかもしれない。

彼はパジャマを着るために脱衣所に戻っていったと思う。わたしは家の中に被害がないか、他の部屋を確認して回ったが、棚の上に置いていた小物が少し落ちたくらいで、特に問題はなかった。避難の必要はなさそうだし、さすがに今日の作業はおしまいにして寝ようか、と伸びをした所で電気がぜんぶ消えた。テレビもつかなかった。どのくらいの範囲の停電だろうか、と窓の外を覗くと見える範囲はすべて真っ暗だった。深夜だから隣の建物の窓が暗いのは当たり前な気がしたけれど、たしか街灯もついていなかったので、おかしいと思ったのだ。SNSを確認すると、どうやら北海道の各地で同じことが起こっているようだった。

とはいえできることはなかった。いつも楽しみにしている音楽サイトの記事が更新されるのが今日だったことをこんなときに限って思い出したが、充電を無駄にするわけにはいかない。一晩寝れば復旧するだろうと考えて、わたしは寝室のベッドへ、浜野くんはリビングのソファへ向かった。

3.11のとき、わたしたちはまだ東京で暮らしていた。結婚したばかりで、事務員で本社勤務のわたしは一時間歩いて家までたどり着けたけれど、隣県まで営業に出ていた浜野くんはいわゆる帰宅難民になって、翌朝まで帰ってこなかった。駅で寝泊まりする羽目になって腰を痛めたよ、とぼやきながら帰宅した彼を、玄関先でハグしたのを覚えている。

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目覚めても電気はつかなかった。ネットニュースやSNSで少し情報収集をしたが、充電が半分になっているのに気づいてスマホを見るのをやめた。水は出た。ガスがつかなくて焦ったが、地震でセンサーが反応しただけらしく、マンションの共用部分にあるパネルを操作したら元に戻った。浜野くんはその間ずっと上司に電話していた。出社するべきか協議していたらしいが、結局、地下鉄もJRも動いていないとわかって諦めたようだった。

当たり前じゃん、こんなときまで、ばかだな、と心の内で思わず毒づいたのを覚えている。わたしの職場からは課長がグループLINEで早々に出社しなくていいと連絡してくれていたので、助かった。

「メシ、どうしようか」

電話を終えた浜野くんが話しかけてきたので、うん、と言った。

「冷蔵庫になんかあるだろ。腐る前に食っちまおう」

「でも、開けると、冷気逃げるんだって」

「はあ?」

「いつ電気つくか、わからないし。いまある食糧はとっておきたい」

「……で、どうしたいわけ」

浜野くんが努めていらだちを抑えようとしているのがわかった。わたしの扱いを覚えてきたな、と思う。別に、単純な彼の機嫌をとる方法ならいくらでも知っていた。でもわたしはそれをしなくなり、結果、たったそれだけのことで、わたしたちはここまで行き着いてしまった。

「外の様子を見てくる。なにか売ってるかもしれないし」

「……俺も行こうかな」

わたしたちがそのとき住んでいたマンションは二十四軒と琴似のちょうど境目のあたりで、住宅街を少し歩くと街の目抜き通りである琴似栄町通りに出た。通りはわたしたちと同じような通行人であふれていて、みな戸惑ったような顔であてどなく歩いていた。家にいたときから鋭い警笛の音が聞こえているとは思っていたが、停電で信号さえも真っ暗になっていて、道路には交通整理のために警官が何人も立っていた。

いよいよただの停電ではないらしい、と不安になった、と思う。あとから思えばわたしの家は二日目の夕方に電気が復旧したのだが、あのときはいつまで続くかわからなかったのだ。

「俺、こっち行くから」

てっきり一緒に行くのかと思っていたら、浜野くんは真っ直ぐ伸びている通りのJR琴似駅の方をさしてそう言った。つまり、お前は反対側を見て回れ、ということだ。反対側は三角山が正面に見えていて、国道の方に繋がっている。ふたりで歩き続けるのはわたしとしても気まずかったので、わかった、と頷くと、彼はさっさと行ってしまった。

目の前にあったイオンはやっていないようだった。なぜわかったのだろう? たぶん行列ができていなかったからだ。電気がつかないのでほとんどの店が閉まっていて、営業しているところにはどこも人だかりができていた。

わたしは歩きはじめた。セブンイレブンも閉まっていた。たしか自動ドアのところに油性マジックの走り書きで、「停電のため休みます」と張り紙がしてあった。セイコーマートだけはやっていて、バイトとおぼしき店員さんが、レジが使えないので現金を電卓かなにかで計算していて大変そうだった。ということは、なにか買ったはずだが、なにを買ったのか覚えていない。食糧を探しに行ったのだから、パンかなにかだろうか。いや、あのときパンを買ってきたのは浜野くんの方だ。充電器はずっと探していたけれど、どこも売り切れていて手に入らなかったような気がする。

歩いているあいだじゅう三角山が目の前に見えていた。三角山は一度みてしまえばそう名付ける以外に思い浮かばないほどきれいな三角形をしているが、正式名称が三角山なのか、そういうあだ名でみんな呼んでいただけだったのかは、いまでも知らない。近くに円山という地名もあるが、円山が円形をしているのかは、そういえば考えたことがなかった。気軽なハイキングに向いていると、職場で聞いたことがある。

歩道も車道も混雑していた。高級車のエンブレムが目についたので、こんなときにまで車を使って出かけなければならないのは会社のお偉いさんが多いのだろうと予測を立てたが、確かめるすべはなかった。

もしかすると、浜野くんがJRの方へ向かったのは、自宅待機を命じられてなお電車が動いているか確認するためだったのかもしれない。あんな状況で会社に行ったってできる仕事なんてないに決まっているが、やる気を見せる姿勢が営業には大切なんだ、と彼はよく言っていた。その目が少し怖かった。

もともとはそんな人ではなかった。いや、わたしが知らなかっただけで、最初からそうだったのだろうか。もうわからない。

短大を卒業したあと入社したオフィス用品のメーカーに、同い年だけれど四大卒の浜野くんはわたしの二年遅れで入ってきた。総合職で新卒からいきなり本社に配属されるのは出世コースだというのは会社のみんなが知っていた。彼は期待に違わず優秀な成績を収めていたらしい。人当たりもよかった。フロアの違うわたしにもすれ違うと笑顔で挨拶してくれたし、感じの良いひとだと思った。

なにが悪かったんだろう。札幌の前は静岡にいた。浜野くんにとっては初めての転勤で、一般職のわたしはそれをきっかけに会社を辞めた。すぐに子供がほしかったから、しばらくは働かずにいたが、授かり物とはよく言ったもので、なかなか思うようにはいかなかった。

家にいるだけでは退屈なのでパートに出たいと相談したら、浜野くんは俺が稼ぐのに、と不服そうにしていた。東京を出て田舎に来たのが嫌なのか、とも尋ねられたが、わたしの実家は小田原で、特別に都会育ちというわけでもないのになんでそんなことを言われるのかよくわからなかった。あなたの仕事ぶりや収入を信頼していないわけでは無くて、ただ暇を潰したいのだと説明すると、渋々ながら了承してくれたが、納得はしていないようだった。

順を追って考えれば、関係が悪化したきっかけと言えそうなことはいくらでもあった。でも決定的だったのは、わたしにとってはひとつだけだ。

浜野くんに胸ぐらを捕まれたときのこと。殴られたわけではないし、たった一回きりのことなのだから、と何度も自分を納得させようとした。父や母のことを思い浮かべて、夫婦にはこのくらいの試練はつきものだとも思おうとした。でも、やっぱり、わたしは許すことができなかった。

文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。