「結婚するんだ、来月」

近況を軽く伝えあったあとにそう切り出したのは、安田だった。反射的にぎょっとしてしまったのをいったん押しとどめて、おめでとう、とカメラに向かってビール缶を掲げた。長くつき合っている彼女とはぼくも顔見知りだし、意外というわけではなかったのに、急に安田のことが遠く感じた。

「でも、就職したばかりだし、お前、福岡だろ。彼女はどうするんだ?」

「このご時世でリモート化が進んで、予定より早く関東に戻れそうなんだ。彼女の会社の方はもっと進んでて勤務地を選ばないらしいから、とりあえずはふたりで福岡暮らしかな。式はいつできるようになるかわからないし、先に籍だけ入れようって」

すげえなあ、と嘆息すると、別にすごいことはないだろ、と笑われる。ぼくより彼女をよく知っている柳本がふたりの馴れそめを掘り返したのをきっかけに、画面越しでさぐりさぐり始まった場はかつてと同じように盛り上がりはじめた。好きな音楽の話を同じ熱量で話すことができて、久しぶりに息ができたようなすがすがしい感覚になる。ぼくにはクレバーでセンスのいい友人がいて、彼らと対等に話せるぼく自身も彼らに負けていない、そんな気持ちになれた。

職場の同期には研修期間に仲良くなって気安く話せるやつもいるけれど、やっぱりプライベートな部分をこんな風には出せない。配属されてひとまわり歳上以上の先輩や上司ばかりに囲まれているいまなんて尚更だ。そういえば酒もずいぶん飲んでいなかった。課長は飲み会好きで有名らしいが、歓送迎会もできないご時世なので、生真面目なおじさんという以上の印象はなかった。

楽しくなってくると自然と酒が進んだ。ふたりも同じだったらしく、柳本などは途中で追加の酒瓶をキッチンから持ってきていた。様子がおかしくなったのは、お前も最近すごいよな、と安田が柳本に水を向けてからだった。

「SNSで見てるだけだけど、すごい売れっ子じゃんか。いくつも連載してるし、好きだって言ってたバンドのインタビューしたり……」

「いやあ、俺なんかまだまだだよ」

照れ隠しにか手元のハイボール缶を煽った柳本を見て、ちょっと嫌な予感がしたのだった。柳本のことは友人だと思っているし、いいやつだ。ただときどき、熱くなりすぎてしまうことがある。

「俺のアカウント、毎日のようにアンチが色々言ってくるし。ひどいもんだよ」

「いちいち相手にしなきゃいいんじゃないか?」

「そういうわけにはいかないよ。SNSは公開の場所だろ。誰の言ってることが正しいか、わからせてやらなきゃ社会のためにならない」

「ううん、それでお前が消耗することもないと思うけどなあ……」

ぼくは卑怯にもふたりのやりとりを黙って聞いていた。安田はそこまでネットをやらない方だから、最近の柳本のアカウントをあまり見ていないのかもしれない。柳本は駆け出しのライターにしてはかなりフォロワー数の多いアカウントを持っているけれど、それは記事の宣伝が功を奏しているというより、SNS上の論争、というかぼくの目には喧嘩に見える投稿が多いからだった。

ネット上の有名人から芸能人、ときには政治家まで、彼は自分と意見を異にする投稿を見かけると強い言葉で反論する。柳本の意見というよりはその態度自体が気にくわない匿名者たちが、今度は柳本へ誹謗中傷に近い批判を浴びせ、柳本はさらに反論し……というのが、ちょっとアプリを起動するだけでぼくの目にもすぐ入ってくる。

安田の何気ない一言が、そうした攻撃者たちをかばっているように聞こえたのだろう。柳本の声色が変わった。

「じゃあ聞くけど、安田、彼女の苗字はどうするつもりなんだ?」

「え? ああ……たぶん俺に合わせることになるんじゃないか」

「彼女がそうしたいって言ったのか?」

「いや、ちゃんと確認したことはないけど……」

「そういうところだよ。ちゃんと世の中に関心を持てよ。大きい会社に頭空っぽで勤めてればいい時代はとっくに終わってんだよ」

「はあ?」

「まあまあまあまあおふたりさん」

ぼくは遅まきながらそう切り出したが、居酒屋にいたならきっとふたりの体に割りこんで物理的に会話を止められたところ、リモートでは画面の前で虚しくビール缶を掲げることしかできなかった。

「林、お前もお前だよ。安田になんとか言ってやれよ」

「ええ? いやあ、俺なんかもう、ふたりともすごい、それでいいじゃない」

「お前、本当にそういうやつだよな。自分の意見を言わないだろ。それでいて裏でちゃっかり自分の有利なように進めてる。それって強者におもねってるのと一緒だからな。お前みたいなやつはさぞ立派な公文書を作るだろうよ」

「ええー? いやー、ええっと、ううーん」

「柳本、飲み過ぎだよ。いったんお開きにしよう。リモートならいつでも集まれるだろ。またやろう、今日は楽しかったよ、じゃあな」

ぼくや柳本がなにか言う前に、安田は通話アプリの解散ボタンを押してしまったらしく、さっきまでふたりの顔が映っていたパソコン画面はふっと無愛想な黒一色になり、それからアプリのトップページに戻った。安田がかなり気分を害していたのは間違いなかった。三人でもう一度集まることは、リアルでもオンラインでも絶望的に思われた。

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今年度から変わった規則に合わせて、備品購入に関連する文書を少しずつ訂正していく。課長の作ったリストと見比べながら共有サーバー上のファイルを探し、該当する数行を削除する単純作業を繰り返していると、柳本が思い浮かべていただろう「公文書」と自分の作っている書類の落差に、少し笑いが漏れた。

あいつの物言いからして、後ろ盾のないフリーランスとしてやっていくことに不安があるのだろうということは察しがついた。それでも、自分の仕事――書き物に対しては誇りを持っているであろう彼のことを、ぼくはうらやましいと思ってしまう。いや、正確には妬ましいのだろう。互いにないものねだりだな、と柳本に仲直りを促すメッセージを送ってやるほど、ぼくは人間ができていないけれど。

あのあと、安田とはメッセージアプリで二、三やりとりを続けた。むしゃくしゃした気分のまま「柳本も一回くらい就職してみればいいのにな」と送ってみると「あいつと同じレベルのことを言うな」とすぐさま返ってきて、それで会話は終わった。たぶん呆れられたのだ。あいつはずっと真面目なやつだし、人生のコマを、理想とされるレール通り着実に前へ進めている。在宅勤務を余儀なくされ空白の時間が増えたのは同じでも、モラトリアムが延長されたと解釈していつまでも現状をぼやいてばかりのぼくとは違う。

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ほとんど頭を使わなくていいはずなのに、量が多いのとファイルをあっちこっちへ移動するのに時間がかかって、訂正作業はなかなか終わらなかった。こんな仕事になんの意味があるのだろう。ほとんど誰も気にしていないような、身内向けの規則だ。気づけば定時を過ぎている。こんなはずじゃなかった、とまた胸の内で呟いた。

「課長、すみません」

広末さんが焦った様子で隣の席へやってきた。よほど慌てていたのか、課長が問い返す前に息せき切って話し出す。ぼくは仕事に集中するふりで耳をそばだてた。

「これ、今日までにデータ入力して次の部署に回さなきゃいけなかったんですけど、先月まで私がやっていたからか担当の人が今月も私がやるものだと思い込んでいたらしくて……。まったく手つかずなんです。残業申請してもいいですか?」

「そうですか。じゃ、お願いしますね」

課長は画面を見つめて作業をしたまま、広末さんの方へ顔も向けない。自席へ戻っていく広末さんの持っている分厚いファイルには覚えがあった。仕事の割り振りをし直したときに、パートさんに任せる仕事にしては少しやっかいな部分があるな、と思った覚えがある。課長は作業内容を詳しく知らないだろう。

作業量を平等にするために担当を変えたけれど、混乱が起きるかもな、と少しだけよぎってはいたのだ。それが的中してしまった。よかれと思ってやったことだが、申し訳ない気持ちになる。簡単に残業申請を受けつけた課長はもう広末さんの様子は全く気にしていない。お前は強者におもねっているんだよ、と柳本が吐き捨てた言葉が頭に浮かんで、急に腹立たしくなった。作業を始めるためにファイルをめくっている広末さんのもとへ歩み寄り、声をかける。

「広末さん、担当の方はもう帰っちゃいました? その人にも残ってもらった方が……」

「それが、保育園のお迎えがあるみたいで」

「ああ、そっか。すみません」

「私は別になにもありませんから。大丈夫ですよ」

「ぼくも手伝うので半分貸してください。パートさんにあまり残業させられないので」

課長はちらっとぼくを見ただけだった。単純作業は苦手だと一日をかけて思い知ったのに、さらなる単純作業をする羽目になってしまった。自分の仕事も明日の午前中までに提出しなければならないから、今日は遅くまで残ることになるだろう。

データ入力は広末さんが慣れていたのもあって、結局手伝えたのは3分の1ほどだけだった。作業を終えた彼女が退勤したのを見届けてから、ひと息いれるために給湯室でコーヒーを淹れた。部屋に戻ろうとするとちょうどロッカールームから出てきた広末さんと鉢合わせる。軽く挨拶を交わしてから別れようとすると、そのまま引き留められた。

「まだお仕事中ですよね。すみません、これを渡したくて……」

差し出されたA4サイズのチラシの表題には『ライブペインティング×詩・短歌』と記されている。よく飲みこめないでいるぼくに、広末さんは続けた。

「知り合いがやっているこのイベントに少しだけ関わることになったんです。林さん、前に歌集を読んだことがあるって言ってたのを思い出して、もし興味があれば、と思って」

その歌集を勧めてきた友人というのが柳本だった。あいつは音楽だけじゃなくて、文学やら演劇やら、とにかく興味の幅が広いやつで、だからこそぼくの尊敬する友人だったのだ。まあ、いまは関係ないけれど。

「画家の人が即興で描く絵を見ながら、店主さんが詩や短歌を作って読み上げるっていう……。ちょっと変わってるんですけど。このままコロナが落ち着いていれば、日曜日にやる予定です」

「はあ……」

チラシをあらためると、隅の方に広末さんの名前もあった。

「広末さんも出るんですか?」

「ほんの少しだけ。私はあらかじめ作ってあるのを読むだけですけど」

ぼくは思わず広末さんとチラシを交互に見比べた。こんなおとなしそうな人が、人前で自作の短歌を読み上げるのか。職場のひととプライベートで関わるのは気が進まないし、たぶん行かないだろうとは思う。でも歌集を読んだことがあると話したとき、広末さんがずいぶんうれしそうにしていたのを思い出すと、無下にはできないような気もした。

「行けるかわからないですけど、とりあえずもらっておきます」

「ふふ、気を遣わせてすみません」

デスクに戻ると課長は先に退勤したようだった。ぼくは自分の仕事を再開したが、受け取ったチラシのことが気になって、結局ほとんど作業は進まないまま帰ることにしてしまった。明日の朝たぶん後悔するけれど、いまは知らないふりをする。

普段は地下通路を通っている帰り道を、たまには地上を歩いてもいいかもしれないと思い立った。残業でささくれた心を癒やすために、外の風に当たりたかった。札幌駅から大通公園までの目抜き通りを歩く。近くには赤れんが庁舎や時計台もあるし、こんなことがなければ観光客やビジネスマンで賑わっている札幌の中心地のはずだが、やはり街の活気はない。自粛要請は少し前に解除されていたと思うけれど、客がいないせいか時間が遅いせいか、飲食店はどこも閉まっていた。

歩いているうちに、静まりかえった街のどこもかしこも赤に染まっているのが気になり始めた。見上げれば全ての街灯がずらりと暖色に光っている。ナトリウム灯。数年ぶりに思い出したその名前が懐かしく思えて、足を止めた。東京に出てすぐのころ、妙に夜道をまぶしく感じて、街のあかりが故郷とは違う色をしていることに気がついた。そのときに調べたのだ。それがいまでは逆に暗く感じるのだから、人間というのは勝手なものだ。

雪で全ての地面が白に覆われると、昼間は少し外を歩くだけで、太陽を反射した光に目が焼かれるかと思うほどまぶしくなる。白い街灯でないのはそのせいだろうと思っていたが、赤い光の方が吹雪いて視界が悪くなるなかでも遠くまで光を届けられるのだという。今後は白色のLEDに置き換わっていくらしいという話も聞いたことがあるけれど、そうなったらどんな風景になるのか、あまり想像ができない。街灯がすべて白くなったらまぶしいだろうと感覚的に思ってしまうが、かえって暗くなるのだろうか。夏とはいえ夜風は冷たい。もう盆を過ぎたから、これからどんどん寒くなっていって、やがて雪が降り出し、街を覆い尽くすだろう。まだ雪のない貴重な街が赤く染まっているのを、しばらく立ち止まって眺めた。

文=貝塚円花
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。