城門のような凸型坑門に日本鉄道の社紋を掲げたトンネル
1カ所目は常磐線竜田〜富岡間です。明治時代中ごろ、私鉄の日本鉄道は都心部から延伸開業を続け、明治31(1898)年に岩沼まで開業しました。その8年後に国有化となり、日本鉄道は常磐線となります。
岩沼までの区間にはいくつものトンネル(隧道)があり、そのうち竜田〜富岡間には全長1654mの金山隧道が控えていました。この長さは常磐線最長であり、トンネルの出入口である“坑門”はレンガ造り。竜田側は城門のような凸型形状に日本鉄道の社紋である動輪を掲げ、富岡側は一般的な坑門の形状ではあるものの、坑口の周りを構成する迫石(せりいし)の上部の石は五角形の盾状を施し、「金山隧道」という扁額を掲げていました。
金山隧道は昭和38(1963)年の新線トンネル付け替えまで活躍し、その後は藪の中に埋もれて放置されていきました。なお新旧共に金山トンネルと称しますが、この記事では混乱を招いてしまうために、主役の旧トンネルを「金山隧道」、現行トンネルを「金山トンネル」と表記しています。
日本鉄道の社紋を掲げた凸型の坑門は、いつしか廃線跡愛好者の間で伝説的な存在となり、廃線跡探索のバイブル「鉄道廃線跡を歩く」(JTBパブリッシング)でも表紙になるほどで、いつかは拝んでみたい廃トンネルでした。いつか訪れてみよう……いつか……。
原発事故後の除染によって露わになった常磐線最長の金山隧道
しかし、東日本大震災における福島第一原発事故によって常磐線が運休し、竜田駅が暫定的な終着駅となって、その先の運転再開は除染後となりました。ちょうどその頃、私は常磐線不通区間を地上と空撮で記録しており、2017年3月12日の2度目の空撮で、「金山隧道を空から捉える絶好の機会だ!」と現地へ向けて飛行しました。
その場所は福島第二原発のすぐ近く、富岡町と楢葉町の境界です。高い山ではないものの、標高が一気に30〜100mほど上がる台地の下に、新旧のトンネルが口を開けています。
先ほど藪の中と書きましたが、長年の放置によって坑門の周囲は人を寄せ付けないほどの低木と雑草に埋もれていました。それが除染作業によってほぼ全ての低木や雑草が除去され、表面の土が剥き出しになったのです。現行の金山トンネルのすぐ隣に、旧線跡の路盤が分岐して大地の中に吸い込まれているのが分かり、特徴的な坑門もすぐに確認できました。
金山隧道は坑門の周囲がすっきりとなり、凸型坑門がはっきりと望めます。旧線と現在線との分岐箇所も判別でき、まるでこれから線路を敷くのではないかと思うほど、旧線の路盤もはっきりとしています。
明治時代、金山隧道の掘削では内部の湧水が多かったそうです。その対策として竜田側から766m地点を頂点にして、竜田側は2.5‰(パーミル)、富岡側は7.1‰及び10‰の勾配がトンネル内部に付けられ、湧水を自然に外へ排出する仕組みとなっていました。当時は蒸気機関車であったから、下り列車はちょっとの勾配でも、上り列車はそこそこの登り勾配であったわけです。
内部がそのような構造であったのは上空から分かりませんが、凸型坑門を望遠レンズで狙うと、除染されたおかげで路盤の左右に水路状の溝が掘られているのを確認できました。そして特徴的なあの動輪の社紋も、はっきりと陽光に照らされて白く輝いているのでした。
金山隧道は空撮から6年経過し、また草木が育ってきていることでしょう。
空撮日:2017年3月12日
取材・文・撮影=吉永陽一