田んぼはニッポンの面影を代表する風景
秩父のシンボルといえば、いうまでもなく武甲山だろう。初めて近くからみたときはびっくりしたものだ。こんな山があるとは知らなかった。まるで山の上にピラミッドが鎮座しているようではないかと。
奥多摩の日原(にっぱら)周辺にも山を削って石灰岩を掘り出しているところはいくつかあるが、あまり目立たない。掘り尽くしてもわからないような特徴もあまりない山が多いと思う。
しかしこの武甲山はそんな穏やかなものではない。秩父盆地のほとんどどこからでもこのピラミッドがみえる。削られた山容がこれでもか、というくらい目立っている。そのピラミッドの山裾に棚田が広がっている。
秋が来れば思い出すのが棚田である。なぜか棚田をみたくなってしまう。というより、実った稲穂や刈り取った田んぼでもいいのだが。
この連載でも1回目から棚田を取り上げて、もう田んぼものはこれで4回目かもしれない。つまり田んぼはニッポンの面影を代表する風景なのである、と勝手に思う。
稲作が始まったのが縄文時代後期といわれるから、もう3000年もの長いあいだ日本人はお米を食べてきたことになる。ということは、田んぼは面影ナンバーワンといってもいいかもしれないのだ。
ピラミッドの武甲山の山裾にある棚田は寺坂棚田という。なぜかみたくなった。もう稲刈りも終わっているかもしれないが、とりあえずでかけてみることにした。
前に寺坂へきたのは、秩父札所巡りが目的で、何カ所か寺を回ってから、そのついでに棚田に立ち寄った。たしか10年以上前。棚田はかなり広く、背景には秩父盆地と武甲山が控え、眺めがとてもよかったという印象が残っている。季節は晩秋で11月なかばだったか。今回は少し早い10月。
鎌倉時代から棚田があった
横瀬駅から棚田まではそんなに遠くはない。ところが以前来たときのルートではなかったせいか、めずらしく道に迷ってしまった。おばさんに道を聞いてどうにか棚田へと到着。
棚田で待ち合わせをしていたのは寺坂棚田保存会の会長、町田修一さん。東屋には棚田の近くに住んでいる大塚さんと二人で待っていてくれた。
「ここはね、古くから米をつくっているところなんですよ。鎌倉時代にはもう棚田でお米をつくっていたようです。ほらそこに絵地図があるでしょう」
東屋に手書きのような地図が貼ってあった。地図には横瀬川と曽沢川の間に何枚かの棚田の絵。棚田の上部には「古寺」という文字。寺に上がる坂なので寺坂というらしい。
「昭和の終わりころまでは、あの山を越えて炭を売りにきたんですよ。そのころ、この棚田でお米もつくっていたようです。山じゃ水がなくて米はつくれなかったでしょうから」
棚田は地元だけではなく山上に住む人たちにも恵みをもたらしていた。
しかし炭焼きが昭和の終わりまで焼いていたというのもめずらしい。一般的に燃料が石油に変わった昭和40年代にほぼ消滅したが、ここは違った。
「最後は二人だけになったようですが、秩父には焼肉の店などがあり、需要があったから続いたんでしょうね」
鎌倉時代から棚田が延々と耕されてきた寺坂棚田だが、その前はどんなところだったのか。
「ほらあそこで発掘したんです。縄文土器や家がみつかった」
棚田の下方に寺坂遺跡がある。1980年に発掘調査が行われ、竪穴住居跡が2軒、ほか縄文土器や石器がみつかった。集落の径は50mほど、住居は5、6軒立っていたようだ。土器は紀元前2500年、縄文時代中期のものが発見されている。
ここもやはり縄文時代から続くところだった。眺めがよく陽当たりもよく、そして水もあるという土地。縄文人が集落をつくるのは当然の場所であろう。そしてそれは米をつくるにも適した場所でもあったのだ。
取材時、棚田はかなり復元されている。しかしここまで来るのが大変だった。
「一時は草ぼうぼうの荒れ地のようになっていて。地主は30人はいたけれど、耕作している人は4人にまで減ったんです」
昭和が終わるころまではまだ棚田は耕作されていたが、次第に減少して、放棄地が多くなった。そこで何とか復元しようと2002年に町田さんたちは棚田学校を立ち上げ、復元に向けてスタート。最初に生徒は70〜80人集まったという。
「棚田をつくり続けるということは大変です。昔から棚田を続けてきたから、なくさないでおこうとやりはじめました。ここでは一番広い田んぼを持っているしね。体が動けるうちは責任をもってつくっていくつもりです」
しかし、代々の土地があるからという理由だけで続けていけるものだろうか。これには町田さんは、
「誰がここに来ても、『棚田が美しい』といわれるようにきれいにしておきたいんですよ。願わくはこのままさらに続けていきたいですが……」
後継者の問題が大きいのだろう。もう少し若い人の力があればと。
武甲山はいつも見守っている
町田さんと別れて、北側にある札所五番の語歌堂へと向かった。町営グランドから田んぼのなかの一本道になり、後ろには武甲山が控えている。なにか見守られているような気分になる。
語歌堂から戻って横瀬川に架かる長い橋を渡る。川の下流にも武甲山がみえる。橋の先、札所十番の大慈寺へと足を延ばした。
大慈寺から横瀬駅のほうへと向かった。田んぼは平地部にもあり、はざ掛け(刈り取った稲を天日干しするために棒などに掛けること)した稲がところどころにある。そしていつも武甲山。どこを歩いていても武甲山がいる。横瀬のひとにとって武甲山は、いつもそばにある、空気のようなものだろうか。山麓に住む民は武甲山の氏子のようなもので、大昔から武甲山に見守られてきたのだと思う。
ふと町田さんの言葉を思い出した。
「採掘によって山頂の標高は昔より低くなりました。以前の武甲山のほうがいいですよ、もちろん。でも私はそれもしょうがないと思ってます。山の姿は仕方がない。ほかのひとがどう思っているのかは知りませんが。武甲山は地元にいろんな仕事を与えてくれています。それは秩父のひとの生きる手段になっているんですから」
武甲山――それは縄文の大昔から長いあいだ、麓の民を見守ってきたのだろう。いまは少々形を変えた山であるにせよ、見守りは続いている。まさに我が身を削って氏子を守っているようにもみえた。
寺坂棚田(埼玉県横瀬町)
【行き方】
西武秩父線横瀬駅下車。
文・写真=清野 明
『散歩の達人』2022年12月号より