洋食のコックさんにあこがれた少年が和食の板長に
品川駅の西側にあたる高輪口。駅前を国道15号線が走り、決して広くはない駅前ロータリーに入ろうとする車両と道路を渡ろうとする歩行者とで、ごちゃごちゃっとしている印象だ。
羽田空港へのアクセスが抜群で、数年後に開通するであろうリニア中央新幹線のターミナル駅にもなる品川駅周辺は、近年再開発が加速しており、街の様相が大きく変わろうとしている。この高輪口には、国道15号線をまたぐ“上空デッキ”ができる予定だという。
閉鎖された商業施設や取り壊しが始まっている建物を遠目に眺めつつ、国道を渡ってそのまま国道沿いを御殿山方面に向かい3分ほど。この日伺うのは、高輪口のロータリーのすぐ脇にあったビルから、やはり再開発の流れで2020年に移転した居酒屋『Tensui』。
「もともとは自分の祖父の代から品川の駅前で果物屋をやってたんです」とお店の歴史を教えてくれたのはオーナーで板長の小池裕幸さん。
「果物屋があった建物を地主さんがビルに建て替えるときに、うちは2階のスペースをもらうことになって。2階じゃあ果物屋はできないっていうんで、1975年に父が「天酔」という居酒屋を始めたんです」。
小池さんのお父さんは経営者の立場で居酒屋を開業し、人を雇って板場を任せていたそう。お父さんは板場に立っていなかったのにどうして小池さんは調理の道に?
「家がまだ果物屋だったころ、建物の裏に店の倉庫があって、そこに行くのに洋食屋さんの調理場の目の前を通るんですよ。自分はまだ幼稚園ぐらいだったんだけど、そこを通るとコックさんが調理場に入れてくれて、いろんな食材を食べさせてくれたりとか、そんなことしてもらってるうちにコックさんになりてえなと思って」。品川生まれの小池さんが軽快な江戸っ子口調で語る。
家が果物屋さんから和食屋さんになったのは小池さんが中学生になったころ。「その時もまだ洋食のコックになりたいって思ってたなぁ。俺は和食じゃねえな、って。でも親父が和食屋をはじめちゃったんで、まぁしょうがねえかなと思って(笑)」。
高校生のころは洋食屋で皿洗いのバイトをした。「その時はいろんなもの食べさせてもらって、『旨い!』と思ったら先輩に作り方を聞いてメモを取って。それで自分でいろんな料理を作ってみて勉強したんです」。
こうして調理の基礎を自ら身につけた小池さん。高校卒業後は「“社長の息子”って立場だと自分も周りもやりづらいから」と、「天酔」ではなく、自ら店を探して和食の修業をはじめる。「コックさんになるのが夢」だった少年が和食文化の面白さに気づくのに、時間はかからなかった。
「毎朝市場に行くのが本当に楽しい」。板長目利きの旬の魚を堪能
その日のメニューは、小池さんが豊洲市場で毎朝選ぶ魚によって決まる。「魚は新鮮さが1番大事。市場には毎日行かないともう気がすまない。買い物がなくても豊洲には毎日行っちゃう」と笑いながら話す小池さん。
「出ている魚も季節によってどんどん変わるし、今月はどんな料理出そうかなとか、この魚があればこの料理できるとか、頭の中でいろいろ考えながらあちこち駆けずり回ってます(笑)」。こんな板長の市場愛を聞いてしまえば、いやがうえにも料理への期待が高まる!
この日のランチはお値段1000円のメニューが7品と1500円のスペシャルランチ1品の全8種類。
メニューボードを見ると、①わらさ刺身とイワシフライ盛り合わせ ②さわら照焼 刺身またはイワシフライ付き ③しゃけハラス塩焼き 刺身またはイワシフライ付き……。ん!? この3つのメニューは、わらさ刺身、イワシフライ、さわら照焼、しゃけハラス塩焼きでいろんな組み合わせができるということでは?
「はい、毎日日替わりでいろんな組み合わせができるメニューになってます」と小池さん。
市場大好き小池さんが目利きした鮮度抜群の魚たちを、刺し身、塩焼き、照り焼き、フライと、さまざまな調理法で一番おいしい状態で提供されて、しかもこの中から2つ選べちゃう。毎日来たとしても、どれとどれにしようか毎日迷うだろうな。
新しい街に変わろうとしている品川駅前。またにぎやかになるのが楽しみ
高校を卒業してから、いろんな和食店で修業を積んだという小池さん。「どこもあんまり長続きしなかったかな。自分が望んでいる料理じゃないとか、働いている人の仕事ぶりを見て『あ、違うな』と思ったらすぐに辞めちゃう(笑)」と小池さんは懐かしそうに話す。
「もう料理に飽きた」と思った時期もあり、配送の仕事で2トン車を運転していたこともあるそう。「3~4年ぐらいやってたかな。やってるうちにだんだん、やっぱり料理しか作れねえのかな、って思い始めて」。
そして調理の仕事に復帰。1998年、30歳の時に品川駅港南口近くに居酒屋『味どころ遊』をオープンした。
それから12年後の2010年、店のリニューアルを機に「天酔」もお父さんから引き継ぐことに。そのタイミングで、店名をローマ字の『Tensui』に変更した。変更の理由は「なんか古臭いし、よく天ぷら屋に間違われるんで(笑)」。
「天酔」もとても素敵な店名だと思うのだけど、たしかに、これから進化しようとしている品川エリアには横文字がしっくりくるかもしれない。
現在、『Tensui』は小池さんと次女の優菜さんが、港南口の『味どころ遊』では奥さまの直子さんと長女の杏奈さんがお店に出ている。家族みんながお店に携わっていることも、このお店のアットホームな温かい雰囲気を生んでいるんだなぁ。
『Tensui』は、品川駅周辺の再開発の流れで2020年に長く営業を続けた駅前の秀和ビルから現在のビルに移転した。現在の場所は仮店舗だ。将来的には元の場所に新しいビルが建ち、『Tensui』も戻ることになるんだとか。「10年後ぐらいにまた引っ越さなきゃいけないんですよ。10年後、俺まだ板場に立ってるのかなー」と小池さんは笑う。
いやいや、「毎朝市場に行くのが楽しくてしょうがない」と目をキラキラさせて話す小池さんを見ていると、10年後だってまだまだ元気で豊洲を駆けずり回っている姿が目に浮かびますよ! 新しくなった街の新しいビルの新しい『Tensui』で、板長目利きのおいしい魚料理をいただく日が来るのが今から待ち遠しい。
取材・文・撮影=丸山美紀(アート・サプライ)