そして怒声は響いた

ある日、給食前の授業が終わり、私は提出が遅れていた宿題を隣のクラスの先生のところにあわてて出しに行った。無事受理してもらいほっとした次の瞬間、私のクラスから、担任の絶叫する声が響いてきた。

「なめとんかオラあ‼」

一瞬で察知した。この怒声はおそらく私に向けられたものだ。

ああ、やってしまった。逃げたい。いや、でも心配しすぎかもしれないぞ。もしかしたら自分とは無関係のことでキレているかもしれないじゃないか。そもそもウェットティッシュごときであんなに怒鳴るだろうか。かすかな希望を胸に教室の後ろから忍び足で入ると、怒りで禿げ頭まで紅潮した担任が仁王立ちで言った。

「お前ウェットティッシュ出してないやないかコラ‼」

怒りの矛先は完全にこちらに向かっていた。私がうつむいているとなおも近づいてきて、

「ウェットティッシュも出さんとどこ行っとったんじゃ」

と怒りに震える声で聞いてきた。

「遅れていた国語の宿題を出しに行っていました」と正直に答えた。

「そうか、まあ先生に迷惑かけてもいかんからな」と情状酌量してもらえることにほんの少し期待しながら。だがその返答は完全に火に油を注ぐ結果となった。

「なんじゃそれ! お前は自分の点数取るのが一番大事なんかオラ‼」

そうだった。この担任は「嫌なことを人に押しつけ、そのくせ自分の成績は上げようと姑息(こそく)に立ち回る奴」みたいな、いかにも金八先生に出てきそうな生徒が一番嫌いなのだ。

いや違います。自分は仕事より宿題を優先したわけではなく、本当にただ仕事を忘れてしまうだけなんです、と伝えたかったが、もはや怒りの道筋がはっきりした担任に迷いはなかった。

私の頭を摑つかんで押し倒し、私の体は机にぶつかり教室じゅうに大きな音が響きわたった。

担任は「自分がやらんでも他の人がやればええと思っとんかボケェ‼」と言って、立ち上がろうとする私を何度も押し倒した。

いや、自分ひとりしか委員がいなくてもたぶんやっていなかったと思います、と言いたかったが、もう私に発言権など残っていなかった。その後、約3分間頭を張られ床に倒され続ける私を、クラスメートたちは青ざめた顔で黙って見ていた。最後に担任は、

「なめとんちゃうぞコラァ‼」

と一喝して教室を後にした。

ようやく解放された私は、班の皆と一緒に、もそもそと給食を食べ始めた。最初のうちは平気だったが、担任にブチ切れられて暴力を振るわれたという実感が遅れて押し寄せてきた。そのとき、隣の席のお調子者が

「お前も悪気はなかったんやんな」

「ほんまは優しい奴やもんな」

と私に気遣うような言葉をかけてきた。すぐにわかった。これは傷ついた私の心を刺激して泣かせ、それを見て笑おうという魂胆だ。

気づいてはいたが、優しい言葉はたちまち私の心に染み入り、ボロボロとあふれ出てくる涙を止められなかった。そしてついには「ウッ、ウウ……」などと呻(うめ)き声まで上げはじめた。

そいつは私の肩をポンと叩き、「泣くなって!」と励ましつつ、涙でぐちゃぐちゃになった顔を見て、すでに爆笑していた。

今回は荒川区の給食カフェにて撮影。※写真と本文は関係ありません。
今回は荒川区の給食カフェにて撮影。※写真と本文は関係ありません。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子 撮影協力=『OGU1(オグイチ)』
『散歩の達人』2022年8月号より

私が通っていた早稲田大学には当時数十もの音楽サークルがあったが、私がいたサークルは“オリジナル曲中心”を標榜していた点で他とは少し違った。ヒップホップ、ブラック・ミュージック、レゲエなどジャンルによって区別されているサークルが大半の中、実力はさておき、とにかく自分の音楽を作り、ひいてはその音楽で世に打って出たいという野心を持つ者が数多く属していたように思う。とはいえ、ごく一部の例外を除きその活動が世間に評価されることはない。サークル員たちはバンドを組み下北沢や新宿のライブハウスに毎月出演していたが、全く芽の出る気配のない数年を経た後も音楽を諦めきれず、またはサークル内の退廃的な空気に流され1年か2年留年した後、結局は普通に就職してそのうちバンドをやめてしまうパターンが大半だ。就活に力を入れて来たわけではないため有名な大企業に入社できるような者はほとんどおらず、大体は適当な中小企業に就職する。私も音楽で世に出るという野望を隠し持ってサークルに入ったクチではあるが、やはり1年留年して卒業する時期になっても音楽で食っていく道は全く開けていなかった。才能はなくともバンドを諦めて実家に帰るのはどうしても受け入れがたく、東京に残る口実として仕方なく小さなIT企業に就職したものの、全く適性がなく1年半で離職。その後、バイトを転々としながらのらりくらりとバンド活動を続け、今に至る。あの頃はバンドをやめて就職することが人生の敗北を意味するようにさえ感じていたものだが、30代も半ばになるとそんな熱っぽい考えも消えた。音楽家として生きていくことと、会社に就職して生きていくことの間にそこまで大きな隔たりがあるようにも今は思えない。もっとも、それは私が人一倍長い時間バンドにしがみつき、こうして媒体で時々自分の思うところを書かせてもらったりしているおかげで、表現欲や承認欲求といったものが多少は満たされているせいかもしれない。だが収入面でいえば、あの頃サークルにいた面々の中で現在の私は最下層になるのだろう。私の知る限り最も経済的に成功しているのは、「SUSURU TV.」というYouTubeチャンネルの運営会社の代表をつとめる矢崎という男だ。
中高時代、私が信奉していたバンド、ブランキー・ジェット・シティの「D.I.Jのピストル」という曲の一節に「何かとっても悪い事がしたい」という歌詞がある。一時期の私はブランキーのボーカル、ベンジーの言うことは全て正しく、自分をベンジーに擦り寄せていきたいと思っていたので、「D.I.Jのピストル」を聴くたび、「何かとっても悪い事がしたい」という感覚が自分の中に存在しないことを再確認してはひどくがっかりしたものだった。ロックには、社会からはみ出してしまうことを気高いもの、美しいものとする価値観がある。すごく才能がある人というのは一般人にはおよそ理解できない無軌道な衝動を抱えていて、それが思春期に盗んだバイクで走り出したり、校舎の窓ガラスを壊して回るような破壊的行動として発露するのだ。そしてそういった衝動を持つ者だけが群衆の中から突出し、独自の作品を世に残すことができる。「悪い事がしたい」という衝動が一切湧いてこない自分には才能がないのかもしれない――。そう考えながら私は多感な十代を過ごしたのである。そんな私にも人並み程度には悪い事をしそうになった経験がある。たとえば、万引きをするかどうかの瀬戸際に立たされた日があった。