江戸期には舟運が発達した村

雨の降り方が異常なせいか、最近はやたらと洪水が多い。それでふと思いだしたのが、埼玉県の熊谷市にある旧新川村のことだ。

そこは荒川の堤防の内側にある、いわゆる河川敷の集落で、いまは無人の地。ようするに廃村になったところだ。広大な畑と田んぼが残され、集落の痕跡はお墓や石垣、神社の鳥居など。

なぜ無人になったのか。原因は洪水である。そもそも約400年前に村ができた経緯にも洪水が関係している洪水とは切っても切れない村なのだ。

旧新川村の道脇には無住の地だが電柱が立つ。ここでは二毛作が行われており、稲と麦を作っている。小麦の生産量はかなり多い。
旧新川村の道脇には無住の地だが電柱が立つ。ここでは二毛作が行われており、稲と麦を作っている。小麦の生産量はかなり多い。

約10年前の冬に行田駅に降りた。幻の村とも呼ばれる旧新川村を訪ねるためだ。駅から荒川のほうへ歩いて堤防に上がると、荒川の広大な河川敷が現れた。そこは一面畑だった。

その畑のなかに道があり、電柱が何本も立っている。周囲に家は見当たらないが、なぜか電柱が立っている。それが脳裏に焼き付いていた。10年後にわかったが、それは水を汲み上げるポンプの電力のためだった。

畑のなかを歩いていると農作業をしているおじいさんがいた。

「ここに住んでいた人は、ほとんど土手の向こうに住んでいる。昔は荒川の水もきれいで飲めたんだよ」

それから荒川のほうへ行ってみた。この川の水が飲めたとはとても信じられなかった。

集落には何箇所かにお墓があった。古いものから新しいものまで。きれいな墓もあるので、いまでもお参りに来ているのだろう。集落の西の外れにゴルフの練習場があり、その脇の道を入ると鳥居があった。三島神社の鳥居で、3分の1は地面に埋まっている。この地の洪水の歴史を象徴している風景だ。このときは旧中山道を歩いて熊谷駅へと向かった。

集落跡には屋敷の石垣や屋敷林などが残る。ここは「店(たな)んち」といわれる農家の跡地。
集落跡には屋敷の石垣や屋敷林などが残る。ここは「店(たな)んち」といわれる農家の跡地。

幻の村と言われた新川村とはいったいどんなところだったのか。なぜ洪水でできた村なのか。

この辺りは昔から水害の多い場所だった。そして荒川が旧利根川と合流するため江戸でも水害が多かった。そこで寛永6年(1629)に荒川を開削し、南側を流れる和田吉野川に荒川の流れを変えた。つまり瀬替えである。これによって江戸の水害が減少し、河川敷内に村が発生した。これが後の幻の村、新川村である。当時は江川村と下久下村と言った。

新川村の西端には土に三分の一ほど埋まった三島神社の鳥居がある。洪水の多さを証明している。
新川村の西端には土に三分の一ほど埋まった三島神社の鳥居がある。洪水の多さを証明している。

北側にあった荒川が村の近くの南側を流れるようになったわけだが、なにせ集落は河川敷内。洪水がたびたび起こるようになるが、洪水と引き換えに村は栄えていく。江戸への川筋になり、荒川の水量が増えて舟運が発達したからだ。ちなみに江戸へは20日かけて荷を運んだそうだ。だいぶ後のデータだが、明治20年(1887)の記録では94戸の家があり、住人は532人。舟は49艘あったという。

荒川舟運の最終基地だった新川河岸の跡。ここが積荷の玄関口だった。久下橋からの遠望。
荒川舟運の最終基地だった新川河岸の跡。ここが積荷の玄関口だった。久下橋からの遠望。

その後、高崎線の開通によって舟運は廃れ、新川村が幻の村になるときがくる。洪水に悩まされてきた村は、それまでも何度か移住の話があったが、ついに昭和16年(1941)から戦後にかけて約70戸が堤防外へ移住。そして新川村は幻となった。

幻の村の住民はほぼ消滅か?

10年後の今回は、とにかく新川村に生まれ住んでいた人の話を聞いてみたかった。幻の村になってからすでに70年以上。そのとき20歳ならもう90歳は越えている。間に合うかどうかだ。

熊谷市の江南文化財センターの学芸員でもある山下祐樹さんと熊谷駅で待ち合わせ。話を聞ける方を探してもらっていた。

「いろいろ探して、1人取材に応じてくれる方もいたんですが、その方はすでに施設に入ってしまって……」

がっくりだが、しょうがない。住人はほとんど鬼籍に入っているようだ。まさに心配していた通り、時間切れだった。当時の人はたぶんほとんどいないのだろう。

新川村にはお墓が三箇所ほど残っているが、これは村の入り口に近いところにあったお墓。
新川村にはお墓が三箇所ほど残っているが、これは村の入り口に近いところにあったお墓。

「新川村ではないのですが、近くの久下に住んでいる人がいるので訪ねてみましょうか。少しは村のことがわかると思うんです。今日在宅しているといいんですが」

山下さんの車に乗ってその久下に住む方の家に向かった。幸運にも在宅。

「荒川の水は本当に飲めたんですよ。母親と新川のほうへ行ったとき、荒川の近くの河原をシャベルで穴を掘ると水が出てきてね、それを飲みました」

と、懐かしそうに語ってくれたのは布施田富夫さん(85歳)。

「うちも新川には三反ほど畑があってね、昔は養蚕が盛んだったから、あたり一面桑畑だったんです。蚕ではみんな潤ったと思います。それもダメになりましたが。畑はいま草だらけです」

布施田さんが住む久下は、かつてはきれいな地下水が湧き出ていたという。まさに荒川の水が飲めたように。

「食器や野菜を洗ったりする生活用水として使っていました。飲んではいなかったけど、きれいな水でした」

瀬替えによって生まれ、洪水から逃れるために廃村になった新川村だが、元の荒川はどうなったのだろうか。

久下に近い元荒川の源流部では、やはり昭和30年代までは地下水が自然流出していたが出なくなったそうだ。理由は1964年の東京オリンピックで使った荒川の砂利採取が原因のようである。

源流部の魚も幻になるのか

源流部にはめずらしい魚が生き残っている。絶滅危惧種で、その名はムサシトミヨ(*)。「世界で熊谷だけに生き残った魚」ともいわれている。

ムサシトミヨ。世界で熊谷にしか生息していない貴重な魚。
ムサシトミヨ。世界で熊谷にしか生息していない貴重な魚。

ムサシトミヨが棲めるように源流部の400mほどが県の天然記念物指定保護区に指定された。そのため源流部ではポンプで地下水を汲み上げている。

「源流部の保護センターと旧中央漁業協同組合の池と併せて日量約6000tを汲み上げています。その電気料金は年間400万円ほど」(山下さん)

ムサシトミヨが棲む源流部に寄ってみた。ゆらゆらと水草が揺れていた。この水草がムサシトミヨの揺りかごになる。しかしこの清流も生活排水によって日々汚濁が進んでいる。

直近の2022年では推定生息数は4754匹、5年前の調査時より2倍に増えているが、長い目では減少の一途をたどっている。ちなみに2000年3万3000匹、2005年1万5700匹。ポンプできれいな水を汲み上げるだけではだめで、地元の人たちの力も当然必要になる。

「最近はムサシトミヨを食べるアメリカザリガニが増えて困っているんです。その対策の一つとしてザリガニを捕獲し、茹でて食べるんですよ」と山下さん。いわばムサシトミヨの

仇討ちである。仇討ちの味はけっこういけるとのことだ。

元荒川源流部。地下水をポンプで汲み上げて、水質を保っている。
元荒川源流部。地下水をポンプで汲み上げて、水質を保っている。
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新川村が生まれたのは洪水が原因だが、人為的に川の瀬替えをしたからその後の運命が決まった。元荒川にかろうじて残ったムサシトミヨも同じく、絶滅一歩手前までいったのは人間のせいである。

100年、200年後もムサシトミヨが新川村と同じように“幻”にならないように願うばかりだ。

 

* ムサシトミヨ
元荒川の源流部に棲む魚で、世界で唯一の生息地。保護センターから下流400mまでが保護されている。トゲウオの仲間で寿命はたった1年。体長は3.5から6㎝ほどで、水温が10〜18℃の湧水のきれいな川でしか生息できないかなりデリケートな魚。将来絶滅させないためには、その湧水の確保や、近隣住民の力にかかっている。

幻の村と元荒川(埼玉県熊谷市・行田市)

【行き方】
JR高崎線行田駅下車。

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2022年10月号より