フライフィッシング発祥の川

今年の春、五日市に行った際にたまたま乗ったタクシーの運転手に聞いてみた。

「郷愁を感じるところ? 五日市はもう釣り堀とキャンプ場の街になってるからね。そんなところあるかなぁ」

秋川に注ぐ養沢川に関しては川が急峻な谷間を流れているので、釣り堀などにするしか手がなかったのでは、という話を後から地元の人に聞いた。深い山岳などではV字谷のようなところを川が流れているが、養沢川の形状はそれに近いので、当然、川そばに広い土地がない。だから釣り堀には適しているのかもしれない。

木和田平の集落内を流れる養沢川。木和田平も30軒に満たない集落で、空き家も何軒かあった。
木和田平の集落内を流れる養沢川。木和田平も30軒に満たない集落で、空き家も何軒かあった。

武蔵五日市駅からバスに揺られ終点の「上養沢」に降りた。すぐ脇を養沢川が流れている。この川沿いをさらに奥へ進むと、御岳山の麓の七代の滝に着く。川は御岳沢と名を変える。鍋割山付近が源流だ。

この道は前に大岳山へ登ったときに、御岳山へ行かずに七代の滝から下りてきた道だ。ちょうど10年前の夏だった。山を歩いてきて疲れていたのと、暑さのせいでよくは覚えていないのだが、養沢川がきれいだったことと、川沿いの集落の風景は心に残っていた。これが再訪の動機である。

養沢川沿いの道を乙津(おつ)方面へ歩いてみようと思った。川沿いには木和田平や怒田畑という読み方が難解な集落が点在する。前者は「きわんだいら」、後者は「ぬたばた」と読む。乙津までにはほかにも集落があるが、集落はいずれも谷間にしては空が開けている日当たりのいい場所にある。

怒田畑の集落と養沢川。上方にみえる、石垣で囲われた家はまるで山城のようだ。怒田畑にはおよそ30軒の家がある。
怒田畑の集落と養沢川。上方にみえる、石垣で囲われた家はまるで山城のようだ。怒田畑にはおよそ30軒の家がある。

養澤神社を過ぎ、神谷(かみや)の集落がみえてきた。川沿いの斜面に20軒ほどの家が立っている。主のない家もあるようだ。次は木和田平の集落。地名に平と付くだけあって、養沢川沿いでは広い平地のあるところだ。

木和田平集落の外れにあった大きな庚申塔。寛政2年(1790)に立てられたようだ。
木和田平集落の外れにあった大きな庚申塔。寛政2年(1790)に立てられたようだ。

真夏でもストーブを焚く、養沢川沿いの谷間の集落

歩いたのは真夏の炎天下。水分を補給して木陰で休んでいると、地元のおじいさんに声をかけられ、冷たい酢のジュースとスイカを出してくれた。ついでに養沢川にまつわる話も聞けた。

「北海道の人でも、この養沢川には一度は来たがるんですよ」

どうしてまたそんなことがあるのか。

「疑似エサで釣るフライフィッシング発祥の地が、この養沢川なんです」

あまり釣りをしないぼくはそんな有名な川とは知らずに歩いてきた。そういえば川には竿を振る姿を幾人もみかけた。聞くと、戦後、福生の横田基地に進駐軍が駐留。極東裁判の弁護士だったトーマス・ブレークモアが養沢川を気に入り、米軍の遊びのために川の一部をフライフィッシング専用釣り場にしたという。当時で一日1000円もする贅沢な遊びだったようだ。現在も4500円と安くはない。

木和田平は平地といっても谷間だ。

「冷えるんですよ、ここは。昨日は薪ストーブを焚きました」

8月でストーブとは、まるで高山にある山小屋並みだ。冬以外はめったに降らないが、たまに雪が降るとなかなか消えないそうだ。

重い腰を上げて先へ。前方に怒田畑の集落がみえてきた。養沢川の対岸の斜面には下から上のほうへ家々が並ぶ。最上部には城のような立派な石垣が張りめぐらされた屋敷がみえる。下方の家を睥睨しているような佇まい。山で財を成した家らしい。

本須(もとす)の先で養沢川から離れて山上の集落へ。集落の名は軍道。以前、馬頭刈(まずかり)尾根を歩いて来たとき軍道と『瀬音の湯』へ行く分岐があり、つい湯のほうへ導かれて下りなかった集落で、初めての訪問になる。

2012年に廃校になった旧小宮小学校の脇の道から上がっていった。急な坂道が学校の裏を通る。集落までは50〜60mの標高差だろうか。上は丘陵のような地形。寺岡や乙津の家々が俯瞰できる眺めのいいところだ。

太陽の日差しがまぶしい。軍道の祖先は、いい場所をみつけたものである。軍道から再び下りて、寺岡の集落へ入ると、背後にいま下りてきた山上に立つ軍道の民家がみえた。眺めのいい軍道の風景に魅せられたぼくは、後日、再び軍道に上がることにした。

農家は、夏は養蚕、冬は和紙作り

軍道の集落からの展望。左側を流れるのは養沢川、下の集落は寺岡。
軍道の集落からの展望。左側を流れるのは養沢川、下の集落は寺岡。

「ここはけっこう古いところでね、隠れ切支丹(キリシタン)のお墓もあります」

とは軍道に生まれ育った栗原晋二さん。御年87歳の元気なお爺さんだ。

軍道では農業を営みながら、山仕事もやり、いまでは東京都の無形文化財になっている軍道紙(*1)という和紙を作ったりもしていた。

「冬の間は軍道紙の内職をして、夏は蚕の仕事などです。畑では主に麦やジャガイモを作ってました」

山仕事では、山で寝泊まりし、食事もそこで作り、風呂まで焚いたそうだ。

話を聞いた栗原晋二さん(87歳)。買い物は車。「本当に便利です、車は」。
話を聞いた栗原晋二さん(87歳)。買い物は車。「本当に便利です、車は」。

軍道では昭和30年代後半で紙を作る家はなくなったが、その後、伝承保存を目的に紙漉きを体験できる施設が近くにできた。

軍道紙の原料はまず楮(こうぞ)である。楮は畑の隅で育て、加工していく。栗原さんが楮の樹皮を叩く道具が残っている、というのでみせてもらった。

年季の入った二本の木の棒。たたき棒というらしい。これで剝いだ楮の樹皮を叩いて柔らかくする。その木のたたき棒には、軍道の人の長い生活の記憶が宿っているようにみえた。

サトイモ畑の脇で育てている和紙の原料となる楮。
サトイモ畑の脇で育てている和紙の原料となる楮。
たたき棒。両手に持ってひたすら叩いて楮の繊維を柔らかくする。
たたき棒。両手に持ってひたすら叩いて楮の繊維を柔らかくする。

いろんな話を聞いたが、ここは隣の檜原村のように独立独歩の精神が芽生えにくいところだ、というのが印象的だった。栗原さん曰く、

「それは軍道では東京までの距離が中途半端なのが原因ではないでしょうか」

つまり、檜原村ぐらい遠いと俺たちで頑張る、ということになるが、少し近いと東京方面に出れば何とかなる、というふうになるのかもしれない。

近くの畑を案内してもらった。畑の隅に楮が植えてあった。庭では枝が見事にすべて3つに分かれているミツマタをみせてもらった。いずれも和紙の原料になる。

「軍道は日当たりのいい場所ですね」

帰り際にそう言うと、栗原さんは「だから楮の皮を干すのにいいんですよ」

五日市には釣り堀とキャンプ場に加え、軍道紙もあった。それは洋紙の普及により衰退したが、古い日本の面影として大切に残されていた。

 

*1 軍道紙
中世に近隣の各村で大幡紙を作っていたが、江戸時代になると養沢川と秋川の合流地点の乙津村だけが自然条件に恵まれたことと、技術の伝承もあり紙漉きが残った。特に軍道が日当たりと山の水に恵まれたおかげで紙漉きの中心になり、軍道紙といわれるように。明治時代に最盛期を迎えて、その後は手工業製の和紙は機械工業製の洋紙の普及により淘汰(とうた)されていく。1964年に紙漉きをする家が一軒もなくなったが、その後、87年に軍道紙の伝承保存を目的に、『あきる野市ふるさと工房』ができた。

養沢川から軍道(東京都あきる野市)

【行き方】
JR五日市線武蔵五日市駅から西東京バス「上養沢」行き37分の終点下車。帰りは「十里木」から西東京バス「武蔵五日市駅」行き11分の終点下車。

【雑記帳】
軍道にある高明神社は、30年ほど前に村の北方にある高明山から遷座された。高明山は『新編武蔵風土記稿』では光明山と称し、高明神社は古くは熊野三社大権現と称したが、明治時代に入ると、高明神社と社号を改めたようだ。乙津地区の『あきる野ふるさと工房』(☎042-596-6000)では、軍道紙の紙漉き体験が可能。

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2021年10月号より