竣工して何十年、箱に宿った「偶然・雑然の美」
これは横浜の福富町という歓楽街にあるビルの裏側を撮ったものです。パブやスナックが密集するこの街に飲みに出向くたび、私はオモテ通りから裏手に回って、この様を見たくなります。ええ、そうなんです、正直に言って雑然としています。有名建築の持つ計算されつくした直線や曲線が組み合わさる美はここにありません。あとから増設された小屋や、のびた蔦、エアコン室外機やダクトが無秩序に取り付けられているのが目に突きささってくるようです。
この建物は、「見られること」を想定していないのです。オモテ側は店舗、こちら側は商売を支えるバックヤードであり、住まいでもあります。
いまの様子からは想像できませんが、じつは元々、ごく簡素な箱のような建物でした。「防火帯建築」という種類の建築物です。戦後復興期、横浜をはじめ各地に不燃材料で(つまり木造をヤメて)、共同ビルが建てられた時代がありました。戦争中、日本の都市は空襲でたやすく焼き尽くされてしまいました。その後街づくりを担った人々は、焼けないコンクリの壁のような建物を大通りに配していこうとしたのですね。通りには商店があります。地元の店主たちがその中で商売し、生活するのを前提に造られた建物は、大きな会社や機関の威信を高めるような建築とはだいぶ違ったものとなりました。正直言って、そっけない箱、「コンクリ長屋」なのです。
(余談ですが、「防火帯建築」について興味がわいた方には、この本がおすすめです。『横浜防火帯建築を読み解く』藤岡泰寛 編著 花伝社)
福富町は終戦後、進駐軍に接収されてしまい、カマボコ兵舎が並んだ時代があります。昭和20年代後半、接収が解除されると、まっさらなキャンバスにのっけられていった無機質な箱。けれど、竣工して何十年と経ってみれば、箱には「偶然・雑然の美」が宿ったのです――。
酔客を誘引する雑然の美
同じ美しさと思えるものに、大森の飲み屋ビルがあります。この札の並び。
あるいは新橋の地下街もそうです。
飯田橋の川べりの飲食ビルも同じです。
大森駅の線路脇、「のんべえ横丁」と呼ばれたバラック街からビルに移った店主たちは、すこしでも自分の店を目立たせようと看板の色を決めたのでしょう。札の並び、極彩色のその美は偶然です。
それまで迷宮のような路地奥で一杯飲み屋をやっていた新橋の店主たちは、終戦後20年を経てこのビルに入居したとき愕然としました。「こんな整然としたところに客が来るのか」――ところが今では通路……というより「路地」にはみ出す席の雑然の美が酔客を誘引しています。
元露店商の飯田橋の店主たちは、木造長屋をこのビルに建て直すとき、自力でやりました。店主同士、毎日「日掛け箱」(鍵の付いた木箱)に少しずつ返済金を入れて店から店へと回す日々。その足しになればと巨大な貸し看板をビルのてっぺんにいくつも掲げ、偶然にもアンバランスな美がそこに宿ったのです。
骨とう品ではなく、「いまも使われている」ことになにより惹かれる
人が美しいものを作ろうとして作ったものだけが美しいのではなく、美など気に留めることもその余裕もなく、ひたすらに仕事に打ち込んだ場所こそ美しいことがある。名のある一人の英知が作ったものに負けず劣らず、名もなき大勢の暮らしが作ったものが美しいことがある、と言い換えることもできます。人の感性とは不思議ですね。そうして後者は、骨とう品ではなく、「いまも使われている」。そこに私はなにより惹かれ、つい、出向いてしまうのです。
そういった場所はかつて街のあちこちにあったのに、いまや絶滅寸前――と思ったのですが、いや、違いました……。私が気付けないだけで、今もどこかで熟成を続け、味を増している場所があるに違いありません。日々、そこに味をつけていくのはもちろん、過ぎていく年月と、たぎる汗。
文・写真=フリート横田