「箱」。その本領は宵の口から

いまやオフィス街となった駅前にあって、あまりに小さく年季の入った低層3階建て。目にするたび、置き忘れられた「箱」のせつなさが迫ってくるこのビル、「千代田街ビル」とも「千代田ビル街飲食街」とも言う。正式名称が揺れてしまっているこの鷹揚さがいい。

宵の口にさしかかれば、いよいよ本領を発揮してビルは神々しく変身してゆく。間口の同じ飲み屋が並び、次々に引き戸が開き、のれんがかかりだし、「箱」に灯りがともっていく。もう昭和の飲み屋長屋そのものになってしまう。そう、ここは一杯飲み屋の集合体ビルなのである。

ビル裏手の姿がまたいい。神田川のふちギリギリに立ちながら川面に明かりを投げている。断崖に背をつける不安定が作るこの奇妙な美しさ。

それにしてもなぜこんな姿のまま令和の今まで残っているのか。それは戦後以来の歴史的経緯による。創業者は、終戦直後の露店商たちだった。

戦争の爪痕ともいえるビル

戦争が終わって間もなく、飯田橋駅前には露店街が出現した。目白通りに沿って九段下駅方面に続くおびただしい簡易店舗。この露店、戦争で焼け出されながら、食い扶持(ぶち)を見つけるツテを持たない最も弱い立場の人々が就き、命を繋いだ素人商売だった。

昭和24年(1949)ごろまで都内の露店は増え続けたが、ある頃突如、消される。GHQより都内の常設露店は全て取り払うべしと指令が出たのだった。

このころ、8軒の露店商たちが集まって、寄る辺なき窮状をお上に訴えたのだろう、川に落ち込むような地面をなんとか斡旋され、木造2階建ての「八軒長屋」を建てた。これがビルの前身である(ただし長屋の完成は昭和23年なので、撤去の機運が高まったころ、早々に動いたようだ)。

昭和20〜30年代、似た経緯の長屋は都心にずいぶんあったはず。ところが高度成長の波に洗われるうち、中の人々はどこかに消え、高層ビルに置き換わっていった。この長屋だけが消えずに済んだのは、土地の一部に区道がかかり、一括で都が払い下げることができなかったことが大きい。もう一点は、創業第一世代の店主たちが飲み屋商売をしっかりと続けたから。

昭和37年(1962)、8軒の家族たち。(写真提供:『鳥政』)。
昭和37年(1962)、8軒の家族たち。(写真提供:『鳥政』)。

昭和40年、木造長屋は軽量鉄骨で建て替えとなった。このとき飲み屋長屋の営業スタイル、権利をビルに移植した。この現実的事由が建築デザインを自然と決定した。生まれたのは、衒(てら)いもケレン味もない長屋並びの「箱」。ただ時間が付けた味だけをその身に湛(たた)えて、現在を迎えている。

昭和40年、完成したビル。看板に秋田の地酒「太平山」の名が見える。(写真提供:『鳥政』)。
昭和40年、完成したビル。看板に秋田の地酒「太平山」の名が見える。(写真提供:『鳥政』)。

……と、こういう戦後史の断片を私に話してくれた8軒のうちの一軒の店主は、少し前に亡くなられた。彼は親から聞いた話を知る第二世代だった。その人々さえも今はほとんどが引退、他に詳しい経緯を知る人はもういない。建物も竣工後半世紀を超え、いよいよ寂しい結末が……と日頃、古い飲み屋街で聞き取りをしているとなっていくのだが、今回は違うよ!

未来へ続く“昭和”

「建物の上についている看板類が台風でも飛ばないように補強したし、ペンキも塗り替えたし。それに専門家にみてもらったら、躯体(くたい)は結構しっかりしてて問題ないみたい」

串を焼き焼き、頼もしい話をしてくれた『鳥政』店主、長島禎治(ていじ)さん。先代の妻であるお母さんと2人、毎夜店に立つ現役バリバリの第3世代の店主である。彼が中心となり、8軒の親睦をはかる会合を今も年に一度は持ち、古くはなってきたが、皆でビルを盛り立てようとしている。街の新陳代謝である開発を否定するつもりはないが、かといってどこもかしこも高層ビル化するのがいいとも思えない。そんな中、ここは取り壊しも、建て替えの予定もない! これは素直に喜んでしまう。

コロナ禍で店を開けられないときは、北は北海道から南は九州まで、愛車ジムニーシエラで車中泊をしながら、新たな食材や酒の仕入れ先も模索した。
「数えきれないほど日本酒も買っちゃって。俺は旨いかそうでないかしかわからないけど」

そう笑う長島さんに、武骨でも旨いものを出す酒場の原点を教えられた。のれんをくぐれば開く宝の箱。どうです、開けたくなったでしょう。

話を聞いたのは … 『鳥政』

長屋ビルの若きリーダーが営む酒場

現在はビル内一番の老舗だが、戦後露店商ルーツではなく、店主長島さんの祖父が戦前に東京大神宮近くで商売を始め、1955年にこの地に入った。何十年通う常連の親父さんたちに交じって、近年は女性一人客も多い。大ぶりなささみとレバーの串をかじり、ルイボスティー割り460円で流し込むのがこの店の王道。焼き鳥1本150円~。

『鳥政』店舗詳細

住所:東京都新宿区飯田橋3-11-30 千代田街ビル1F/営業時間:17:30~23:00LO/定休日:土・日・祝/アクセス:JR・地下鉄飯田橋駅A1出口から徒歩2分

文=フリート横田 撮影=丸毛 透
『散歩の達人』2021年12月号より

程度の強弱はあれ、昭和のころに作られたさまざまなレトロなものにご興味があるから、こうして今、本連載エッセイを読んでくださっているものと思います。そうすると、たとえば建築なら、木造のひなびたものがお好きでしょうか?いや石造りや鉄筋コンクリート造りが好きだよという方なら、昭和初期に造られたアールデコのものなどですかね。戦後、小さな商売人たちのために建てられたこんな建物はどうでしょうか?※写真はイメージです。