新旧隣り合う街のコントラストの中に根付いた餅菓子屋
どかーんとそびえる超高層建築群に視界を遮られ、にわかに狂う方向感覚。
「百反通りの北側にある再開発エリア、JR大崎駅に近い方にはタワーマンションができて、若い世代のおしゃれな夫婦がたくさん引っ越してきました。常連のお客様曰く、南側には以前と変わらない住宅地が広がっていて、昔ながらの気さくな近所づき合いが残っています」
そう教えてくれたのは、この通り沿いに店を構える『高松屋』の店主・髙地寿樹(たかち かずき)さん。
言われてみれば、通りを境にして南北の街並みにはっきりとしたコントラストがある。駅の新西口を出て、未来都市のごとく整えられた小道を抜けると、かすかに昭和の空気が残る百反通りにぶつかる。髙地さんは、父が高松宮邸(現在の高輪皇族邸)で働いていた関係で敷地内の社宅で育ち、高校生だった1997年ごろにはこの辺りまでよく遊びに来ていた。まだ町工場も多く、今と比べるとだいぶのどかだったという。街が変化し巨大化したのは、2007年ごろからだ。
「昔から住んでいる人たちは、うちの豆大福を普段のおやつにしてくださいますが、近所に配るお裾分け用として多めに購入してくれる人も多いです」
夕方、常連客が散歩の途中に立ち寄って、売れ残っている商品を買ってくれることもあるとか。一方、新しい住民やオフィスビルのサラリーマンは、友人や取引先への手みやげにする人が多い。用途は違えど、どちらからもしっかり支持されているようだ。
時代に翻弄されない、地元に愛される餅菓子屋
そんな髙地さんが和菓子の道に入るきっかけとなったのは、旧高松宮邸に程近い『松島屋』。大正7年(1918)から続く言わずと知れた人気店で、手作りの大福や団子のために長い行列ができる。朝の3、4時ごろから作り始め、豆大福だけでも店頭で販売するものからデパートに卸すものまで、開店前に1000個は用意。特に忙しい時間帯には近所の人たちも加勢し、餅を丸めたり、袋詰めしたり、接客したりとエネルギッシュだ。みんな単なる手伝いではなく、なかには10年選手の熟練も。高校時代に店の前を通学路にしていた髙地さんもその一人で、「かずちゃん、お願い」とスカウトしたのは、3代目の文屋(ぶんや)弘さんだった。
「私が小さかった頃には、旧高松宮邸の敷地は誰でも自由に出入りできたんです。広くて自然いっぱいの敷地は、子供たちの絶好の遊び場でした」
と文屋さん。職員に支給するおやつの注文を受け、10円の駄賃を目当てに店の手伝いで配達に走ることもあった。飾らない日常が、この街のそこかしこで見ることができた。「お財布、忘れちゃった」と言われて「お代は今度でいいよ」と品物をそのまま渡したり、割烹着姿のご近所さんが財布だけ持って店にやってきて、ひょいっと裾を持ち上げ、「ここに入れて」と購入した豆大福を持ち帰ったりもしていたという。この店の餅菓子が人々の生活に溶け込んでいるというのが、親、子、孫と3代続けて通う客が多いことからもわかる。
地元の定番おやつが、評判が評判を呼び今や界隈を代表する名物に。新旧2軒の餅菓子屋には、いずれも遠方からわざわざ足を運ぶ人がいて、その魅力にハマってしまったリピーターも少なくない。それが結果として街を元気づけ、足元からじわじわと盛り上げているのだ。互いに愛し、愛されている街の人たちと店。そんな、聞くだけでほっこりさせられる関係性もまるごと噛み締めながら、購入した品をじっくり味わってみることにしよう。
松島屋 [泉岳寺]
「あえて変えない」という老舗の矜持
昭和天皇の好物だったことでも知られ、「東京の三大豆大福」に挙げられるこちらの豆大福。北海道富良野産の赤えんどう豆を蒸籠(せいろ)でふっくら蒸し、弾力のある餠の中に多めに散りばめる。餠つき機は自動だが、返し手は職人による手作業。「かしこまったお菓子にしたくない」と先代から引き継いだ製法と素朴な味わいを守る。
『松島屋』店舗詳細
高松屋 [大崎]
若手が磨きをかける新しい王道
2016年に『松島屋』から独立し、オープン。店名は「育った環境や修業先にちなんで決めました」。店を助ける髙地さんの母も、以前はなんと『松島屋』で働いていたそう。豆大福を頬張ると、ほどよく食感を残した赤えんどう豆と、もちっとしていながらも歯切れのいい餠、これ専用に炊いた潰しあんが見事な三位一体を成す。
『高松屋』店舗詳細
取材・文=信藤舞子 撮影=丸毛 透
『散歩の達人』2022年7月号より