江戸時代から続く一大産業。貝細工の栄枯盛衰と小さな未来
「このクジャクはフランスのモン・サン・ミッシェルのみやげ物屋で売れたんです」
と『寶月』の主人宇田川英男さんは言う。
「えっ!?」。
何と江の島貝細工は、外国の海辺の観光地にも進出した一大産業だったのだ。
そもそも江の島は信仰の島で、江戸時代には大山阿夫利神社・鎌倉寺社を合わせて巡る人気旅行コース。島内の宿や飲食店、魚を供給する漁業、みやげ物屋は当時からの主要産業で、江戸時代の旅行ガイド本に「江ノ島土産の貝細工・貝屏風」が描かれている。
実はこの島民の末裔(まつえい)の多くは今も島に住んでいる。だから貝細工も連綿と続けられた。店番は大抵女性で、男や子供は浜辺で貝細工の材料となる貝を拾ったとか。山の上の『貝広物産店』の片野義雄さんは
「島には夜の娯楽もテレビもない時代、店を閉めると両親は貝細工作りに励んでいましたよ」と語る。
細々と続く家内生産の一方で、明治半ばに一大変革があった。桶職人だった渡邊傳七(でんしち)が、貝を切断したり彫刻を施す加工技術を導入したのだ。県の担当者も彫刻家を招いて、島の若手向けに講習会を開いた。若手の一人が『寶月』の先代だ。
「父は教わった真珠貝の彫刻が好きで職人や私も腕を競いました」
と宇田川さん。やがて先代や渡邊傳七は島内外に工場を構え、江の島貝細工を量産化し企業ベースに。
材料の貝殻も全国からさまざまな種類を取り寄せ、逆に商品を各地の海辺の観光地に出荷するほどに事業は発展した。そして海外進出。貝細工をトラックに乗せて横浜港や神戸港へ次々に送ったのだ。
しかし1971年円相場が変動制に。
「360円が240円と円高になり輸出は大赤字。でも下請け業者からは発注済み製品が次々に納品され、在庫は増え続けて」
と宇田川さんは振り返る。さらに貝殻洗浄に使う薬品で川の水質汚染も問題となり、江の島界隈の貝細工作りはいつしか消えた。
「鎌倉彫のように、貝細工も伝統工芸指定を受ければよかったのですが」
と宇田川さんは悔やむ。
でも江の島と貝は今も縁があった。
貝細工の祖・『渡邊本店』ではオリジナル貝製品を海外製造、水族館に納品するほど本格的な貝標本も販売している。何よりうれしいのは、宇田川さんが今も県内の業者に愛らしい貝の人形などを製造依頼していること。
江の島貝細工の小さな未来が『寶月』に輝いていた。
今も江の島に残る貝細工作品
貝広物産館
冬場の閑散期の夜に作った、昭和時代の貝細工の花。相模湾の貝など貝殻も豊富な店。
渡邊本店
貝好きの初代傳七が発見した新種の貝は「ワタナベボラ」と命名。往年の貝細工も陳列。
中野商店
創業明治初期の店奥に、横浜で明治時代に作られた「芝山細工」という貝細工のミニ衝立発見。
取材・文=眞鍋じゅんこ 撮影=鴇田康則
参考資料=『懐かし うつくし 貝細工(特別展図録)』大田区郷土博物館/2012年 『江の島の民俗』藤沢市教育委員会/1995年
『散歩の達人』2022年6月号より