竹ノ塚のフィリピン人たちの、大切な台所

「これがないとフィリピン人、死んじゃう。日本の味噌汁みたいなもの」
リチータ・ラザさん(58)はそう言って、シニガンを運んできてくれた。タマリンドで酸味を効かせた、フィリピンのソウルフードともいえるスープだ。
「具材は家庭によって違うけど、うちは骨付きの豚肉を3時間くらい煮込むの」
さらにオクラとほうれん草、とろみをつけるために米のとぎ汁を加えたシニガンは、なるほど、どこかほっとする家庭の味。
「アドボはチキンと卵ね」
煮込み料理全般を指すアドボも、フィリピンを代表するメニュー。今日は鶏肉をレモンと醤油、それにこしょうと砂糖で煮たそうだ。
「私、お醤油はね、3つ使ってるの。日本のもの、フィリピンのもの、それとコレ」
東南アジアでよく使われているシーズニングソースだ。日本でいうなら、たまり醤油だろうか。やや値段は高いが風味豊かなのだとか。料理によって3種類を使い分け、ときにミックスして、リチータさんオリジナルの味を出している。

とにかく面倒見のいいリチータさん。なんと大相撲・高安関の伯母でもある。
とにかく面倒見のいいリチータさん。なんと大相撲・高安関の伯母でもある。
右上から時計回りに、アドボ(Adobo)、ルンピア・シャンハイ(Lumpia Shanghai)、シニガン(Sinigang)、カルデレータ(Kaldereta)、ピナクベット(Pinakbet)。
右上から時計回りに、アドボ(Adobo)、ルンピア・シャンハイ(Lumpia Shanghai)、シニガン(Sinigang)、カルデレータ(Kaldereta)、ピナクベット(Pinakbet)。

そしてフィリピン風ビーフシチューといわれるカルデレータはなかなか濃厚グレイビーで、これはガーリックライスにぴったりだ。夢中になって食べていると、フィリピン人のお客さんが次々にやってくる。この店はフィリピン食材のショップでもあるのだ。キッチンカウンターの下とか、入り口の狭いスペースを活用して棚がつくられていて、フィリピンの調味料やらお菓子、ジュース、インスタント麺などがびっしりと並ぶ。そこからいくつか買って、リチータさんとなにやらタガログ語で笑い合う。近隣のUR賃貸住宅にはフィリピン人が多いのだ。料理をテイクアウトしていく人もいるそう。

見ているだけでも楽しいフィリピン食材もいろいろ。
見ているだけでも楽しいフィリピン食材もいろいろ。
米麺もあれこれ売ってます。
米麺もあれこれ売ってます。

「私は毎日2時に店に来るんだけど、まずやることはたくさんのお弁当づくり」
夕方から夜になると、仕事を終えて竹ノ塚に帰ってきたフィリピン人たちが「私のごはんは〜?」なんて言いながら店の扉を開けるのだとか。そしてリチータさんからお弁当を受け取ると、それを半分は自宅で晩ごはんにして、半分は翌日、職場でのお昼に。そうやって暮らす竹ノ塚のフィリピン人たちの、ここは大切な台所だ。

「コロナの前はね、週末は毎日のようにパーティーが入ってたんだよ。フィリピンは子供が7歳になったらお祝いするんだけど、そのパーティーとか、誰かの誕生日とか」
しかしコロナ禍になってから、そんな機会もめっきり減った。寂しいよ、とリチータさんは呟(つぶや)く。

どうして竹ノ塚に「リトル・マニラ」ができたのか

フィリピン南部ミンダナオ島のスリガオから、リチータさんが日本にやってきたのは1989年のこと。きっかけは留学だった。
「大学を出たあと不動産の会社に入ったんだけど、扱っているのは一般の家や土地じゃなくてゴルフコースだったの。そのお客さんの70%が日本人」
バブル経済真っ盛りの時代、日本はフィリピンにあるゴルフ場にも手を出していたのだが、そのためリチータさんには“顧客の日本人と円滑なコミュニケーションを取るため日本語をマスターせよ”という社命が下った。

こうして川崎の日本語学校で学ぶうちに、だんだんとこの国が好きになり、そのまま居ついてしまったというわけだ。

やがてフィリピン人の集住する足立区・竹ノ塚に移ってきた。そしてレストランを経営していたフィリピン人から、店を引き継いでほしいと頼まれる。悩んだのだが、小さい頃から料理は得意だったこともあり、やってみることにした。だからもとの店の名前に「ニュー」を加えたのだ。

『ニューハングリー(NEW HUNGRY)』。どれも一品 1000円(2人分)。土・日はビュッフェスタイルで食べ放題 1300円。パーティーなどは応相談。
『ニューハングリー(NEW HUNGRY)』。どれも一品 1000円(2人分)。土・日はビュッフェスタイルで食べ放題 1300円。パーティーなどは応相談。
現地の不動産屋のポスター?
現地の不動産屋のポスター?

それから13年、街の移り変わりを見てきたが、どうして竹ノ塚にフィリピン人が多いのか、そのあたりはよくわからないという。
「埼玉が近いでしょう。向こうは工場が多くて、仕事があるからかなあ」

そして竹ノ塚といえば、駅の東口にフィリピンパブが密集していることでも知られている。雑居ビルに50軒ほどが入っていて「リトル・マニラ」なんて呼ばれてもいるが、こちらも成立のきっかけは諸説ある。近くにカトリック教会があったから、外国人でも借りやすいUR賃貸住宅が多いから、都心に出やすい割に賃料が安いから……などと言われているが、明確な理由は不明だ。

しかし20年ほど前はもっとたくさんのパブがあったそうだ。ビザの厳格化や日本の不況、そしてコロナ禍もあり、その数はずいぶんと減った。女性たちも夜の世界を離れ、いまでは食品工場や介護現場で働く人も多い。それでもリチータさんは、いくつかのパブにおつまみをケータリングしているそうだ。

駅のそばに広がるフィリピンパブ街も、コロナ禍でずいぶん静か。
駅のそばに広がるフィリピンパブ街も、コロナ禍でずいぶん静か。

土日のビュッフェは近隣のフィリピン人の憩いの場

まだまだ料理は続く。塩漬けにしたアミエビで野菜を炒めたピナクベット、牛のひき肉にセロリとニンジンのみじん切り、卵の黄身をあえて春巻きにしたルンピア・シャンハイと、リチータさん自慢の料理がずらりと並ぶが、実はこの店、メニューがない。その日の材料とリチータさんの気分によって、なにをつくるか決めるのだとか。どんなものが食べられるのかは店に行ってみてのお楽しみ、というわけだが、「なにか食べたいものがあるときは前もって電話して。用意しとくから」と、リクエストもできる範囲で受け付けている。どれも一品1000円(2人分)だが、これも応相談で「これとこれを半分ずつ」みたいなワガママもある程度は聞いてもらえる。なお今回作っていただいた料理は、どれもだいたい毎日用意しているとのこと。

デザートに揚げバナナもつくっていただきました。
デザートに揚げバナナもつくっていただきました。
あれこれ食べたいなら週末ビュッフェがおすすめ。
あれこれ食べたいなら週末ビュッフェがおすすめ。

そして土曜と日曜は1300円で食べ放題のビュッフェ形式だ。フィリピン人も、常連の日本人も多い。その誰もがきっと、リチータさんの明るい笑顔を楽しみにやってくるのだろう。

『ニューハングリー(NEW HUNGRY)』店舗詳細

住所:東京都足立区保木間2-21-1/営業時間:14:00~21:00(土・日は11:00から、ビュッフェは18:00まで)/定休日:月/アクセス:東武スカイツリーライン竹ノ塚駅東口から徒歩15分

取材・文=室橋裕和 撮影=泉田真人
『散歩の達人』2022年3月号より