階段の先にある、草木が生い茂る中庭
古いビルの3階にある『エセルの中庭』に入店するには、2階まで登った後にドアを開け、さらに狭い階段を上がる。初めてならば、ドアを開けた瞬間からどことなく緊張するかもしれない。別世界に繋がっていることが明らかだからだ。
階段を一段上るごとに、店内にある緑や動物のオブジェなどが見えてきて、小さく驚く。室内だというのに、本物の植物も生い茂っている。店内中央には水槽もあれば、本棚や人形のほか、彫刻まである。ヨーロッパの古いお屋敷の、忘れられた庭。そんな印象だ。
水が流れる音に加えて、BGMにクラシック音楽が流れているが、時々小説を朗読している音声も流れて、空間の重厚さと妖しさを増幅する。古いビルの中にこんな世界が広がっているなんて、足を踏み入れてみなければ想像もつかないだろう。
エセルは、第2次世界大戦前後の英国に暮らしていた少女。街から遠く離れた郊外で生まれ、物心つくまで育ったあと、博物学を生業にする父の仕事の関係で都会に移る。人見知りの彼女は都市での生活に馴染めず、いつしか心を病んでしまった。そんな生活の中で訪れた一軒のカフェが、田舎の屋敷で好んで時間を過ごしていた中庭に似ていた——。そんなストーリー『中庭のエセル』が、この店の背景になっている。
クラシカルなティーポット。メニューにもそれぞれストーリーあり。
メニューは、ドリンクは紅茶が中心。ティーは美しく華奢なポットで提供される。スイーツ類もエセルの物語に登場することを想定したもの。メニューブックには、それぞれに背景となるストーリーが添えられている。その中でも石垣と名付けられたりんごの入ったクランブルケーキは、少し特別だ。小さなブックレットがついてきて、その中にはエセルが田舎の邸宅で出会った庭師との微妙な関係を描いた話が綴られている。
『エセルの中庭』がオープンしたのは2012年のこと。同じビルの2階にあるおしゃべり禁止の読書カフェ『アール座読書館』を営んでいるオーナーの渡邊太紀さんが、新たな店として開いた。「『アール座読書館』は心を落ち着かせるための場所なので、それとは逆にお客さんがわっと喜んでくれて気持ちが上がるような、それでいて現実から離れられるようなお店をやりたくなったんです」と開業の動機を話してくれた。
渡邊さんは独立前から飲食業界で働き、お弁当の移動販売なども経験。いずれ自分の店を持ちたいと思っていたが、一方で少年の頃から宮沢賢治やミヒャエル・エンデなどの作品をよく読み、大人になってからは洋館やアンティークショップ巡りも趣味のひとつとしていた。その2つが融合し、湧き出るアイデアを実現させたのが『エセルの中庭』だ。アンティーク家具や人形、ティーポットのような食器類など、個人として持っていたものに加えて、店のために新たに購入したものをミックスさせて、ストーリーに沿った世界を古いビルの3階に作り上げた。
「食器は色々用意していますが、適当に選ぶことはしないでほしいとスタッフにはお願いしています。お客さんが入ってきたとき、そしてオーダーを受けたとき、その人がどんな方で、何を欲しているのかを外れても構わないから想像してほしい。ポットやカップ、スイーツをのせるお皿は、自分なりにそのお客さんの世界観のために選んでお出ししてほしい。それがこの店のスタッフとしての腕の見せどころだよと話しています」
オープンから間もない頃は、単純にお茶をしたいと思ったらしい人が入ってきて、予想外の店構えにびっくりしてしまうということもあった。近年は店の世界観を理解した上で訪れる人が多くなってきたという。中には『エセルの中庭』にある世界と自分の趣味を組み合わせて楽しもうと、着飾って訪れる人もいる。週末はウェイティングリストが必要なほどの盛況ぶりで、遠方から訪れる人も少なくないという。
現在はドリンクとスイーツがメニューの中心だが、今後はストーリーの舞台、英国にちなんだ食事のメニューを出していきたいと渡邊さんは話す。店の世界観の完成度をもっと上げたいと、スタッフとも相談しているとのことだ。
『エセルの中庭』は、ドリンクやスイーツを主として楽しむ一般的なカフェとは違う。店内には、ひとつひとつにストーリーが宿った装飾品が至る所にあって、大人としての忙しない日常で忘れてしまった子どもの頃の空想や、小さなかわいいものを愛でたくなる気持ちが呼び起こされる。足を踏み入れたときに生じる自分の変化も楽しんでみてはどうだろうか。
取材・撮影・文=野崎さおり