『唐獅子牡丹』(1966年)と六区の風
「ロックの風よぉ♪」
近所のパンチパーマのオジサンが、よく口ずさんでいた『唐獅子牡丹』のフレーズ。長らくこの歌詞を「ロックの風」と思い込んでいた。曲がりくねった路地に吹くロックの風ってなんか、カッコ良い感じだよなぁ……と。
高倉健が主演した『昭和残侠伝』シリーズのテーマ曲だと知ったのは、ずいぶん後になってからのこと。映画の第一作は終戦直後の浅草が舞台だった。それにあわせて作られた歌詞には、観音様とか隅田川とか浅草の名所がいっぱい。あれは「ロック」ではなくて浅草の興業街「六区」だったのだな。赤面。改めて聴いてみると、かなりベタなご当地ソングだ。
昭和20年(1945)3月の東京大空襲で、浅草一帯は焼け野原に。終戦直後の空撮写真を見ると、爆撃を逃れた浅草松屋デパートの建物が、瓦礫の海に浮かぶ孤島のように佇んでいる。浅草寺の伽藍はすべて消失し、参道に沿って焼け焦げた鉄材の骨組みが連なるさまに、仲見世の名残をわずかにとどめていた。
しかし、人々の生産活動は旺盛だった。大空襲から間もなく、「国際劇場」(現在の浅草ビューホテル)の北側一帯には、粗末なバラック小屋が迷路のように立ち並ぶ飲食街ができあがり「国際マーケット」の通称でにぎわっていたという。が、そこは「怖い場所」でもある。
当時のGHQが兵士たちに配布した地図には、浅草が載っていない。「東京」の圏外であり、立ち入りを避けるべき危険地帯という認識があった。昭和26年(1951)3月21日には、国際マーケットで商店主と口論した米軍兵士が刺されて負傷する事件が起きている。仲間の米兵が救助して逃げようとしたのだが、100人以上の群衆がこれを囲んで投石する大暴動に発展。多数の米兵が負傷し1人が死亡した。
日本を支配して我が物顔に振る舞う米兵たちも、ここで事を起こせば無事ではすまない。パンパンガールを侍らせて新宿や新橋の闇市を闊歩するのとは違って、緊張を強いられる場所だった。
現代の外国旅行ガイドブックには各都市の治安状況を色分けした「危険度マップ」をよく見かける。当時これがあれば、浅草は間違いなく最も危険なエリアとして「不要不急の訪問は控えるべき」とされたはず。現在の「世界一安全な観光地」のイメージとは真逆。ひと昔前の南アフリカとかコロンビアの都市のような感じか。
だから『昭和残侠伝』の舞台にも、この頃の浅草が選ばれたのだろう。煙で煤けた劇場の外壁、戦争の傷跡がまだ色濃く残る六区の興業街を肩で風切って歩く。その先には「魔窟」「東洋のカスバ」と恐れられた国際マーケットの闇市がある。
危険の臭いを肌で感じ取りながら、懐の合口に手を添えて薄暗い路地に……なんて、シーンを思い描き『唐獅子牡丹』を口ずさみながら浅草を歩く。と、やっぱりこれは「ロック」じゃなくて、六区の路地裏を曲りくねって吹く風だったのだな。納得。
この頃は六区も殺伐として『唐獅子牡丹』の雰囲気にもよく似合う。耐火建築の外壁が焼け残っている表通りから、一歩裏手にまわれば焼け焦げた廃墟。通りに面した側の薄っぺらな外壁が、まるで映画のセットか舞台の書き割りようにも見える。
興行街が再生し、夢追う若手芸人が集まってくる場所になるには、もう少し時間が必要だった。
『東京ラプソディー』(1936年)と六区の繁栄
昭和30年代に入ると、浅草に戦前の華やかさが戻ってくる。「怖い場所」のイメージは薄れて、東武浅草駅から六区の興業街を直線で結ぶ最短ルートの道筋は「新仲見世」としてにぎわうようになっていた。浅草寺はまだ再建工事の最中。現在の雷門がある場所には「ASAKUSA BUSINESS CENTER 仲見世商店街」と書かれたバタ臭い仮設ゲートがあり、占領時代の残香を漂わせている。境内は小さな仮本堂があるだけだったが、それでも参道は参拝客であふれている。人混みは途切れることなく境内と隣接する六区までつづく。
朝鮮戦争頃には六区の劇場や映画館も次々に再開し、この頃は29館がひしめきあっている。大正時代に日本初の映画専門劇場「電気館」が開業して以来、ここは日本のエンタティーメントの中心。映画や演劇、音楽など最先端の流行文化が楽しめる場所だった。昭和11年(1936)に発売された『東京ラプソディー』にも、戦前の浅草のイメージが唄われている。
戦後復興を遂げたこの頃もまた、日本の興業界は浅草六区を中心にまわりつづけていた。昭和22年(1947)に日本初のストリップが新宿帝都座で公演されると、数カ月後には六区にもストリップ劇場の『ロック座』が、つづいて「フランス座」(現在の『フランス座演芸場東洋館』)が開館する。浅草で完成の域となったストリップ文化は、やがて全国に波及する。浅草六区は戦後も流行発信地の役割を担いつづけた。
当時のストリップ劇場のプログラムには、合間に軽演劇や漫才が挟まれる。『ロック座』では永井荷風が台本を書き下ろし、「フランス座」文芸部には無名時代の井上ひさしが所属していたという。
渥美清や三波伸介、萩本欽一といった戦後の日本芸能界の巨星たちの初舞台も六区のストリップ劇場だった。
六区は若手芸人の登竜門でもあった。80年代漫才ブームで旋風を巻き起こしたビートたけしが初舞台を踏んだのも「フランス座」だった。昭和47年(1972)にエレベータボーイ兼芸人見習いとして劇場の楽屋に住み込むようになり、芸人の道に入ったという。弟子入りしたのは当時「フランス座」の経営も担っていた名人・深見千三郎。萩本や東八郎を育て、「浅草の師匠」と呼ばれた名人だ。
当時の下積み時代の思いを唄った『浅草キッド』は、自身で作詞・作曲したもの。令和元年(2019)12月31日の紅白歌合戦で、アコースティックギターの伴奏でこれを熱唱した姿は印象的だった。
しかし、たけしが「フランス座」で修行していた頃の浅草六区は、すでに衰退期に入っている。歌詞にあるような、客が2人しかいない演芸場の寂しい情景が思い浮かぶ。
『浅草キッド』(1986年)と限界集落のような六区
戦後復興を遂げた浅草六区の興行街。だが、その栄光の時代は儚く短かった。
1960年代後半頃から、テレビの普及により映画館や劇場の客は減少の一途。ストリップもすでに全国各地に林立し、過激な「本番マナ板ショー」が繰り広げられている。『ロック座』や「フランス座」で演じられる昔ながらのソフト路線はもう流行らない。そんなものを見るために、東京の中心から外れた浅草までわざわざ来るのは、昔からの常連客だけ。採算が取れず劇場が次々に閉館する。
六区の通りの人流も激減して、コロナ過の非常事態宣言発令中のいまの状況と似た感じ。地方都市でよく見かけるシャッター商店街みたいに閑散とした眺めだった。
そんな時代の悲しい象徴が、新世界ビル(現在は「ウィンズ浅草」)である。屋上には「娯楽の大殿堂 地下大温泉郷」と書かれた巨大な看板、その上には電飾に煌めく五重塔がそそり立つ。館内には温泉施設の他に演芸場、キャバレーなどの娯楽施設があった。
新世界ビルの建つ場所はかつて浅草寺境内だった。戦前は瓢箪池を中心とした公園があり、終戦直後にはそこに盗品を売る泥棒市場ができる。浮浪者や娼婦がたむろする怪しく危ない雰囲気だったが。浅草寺が本堂再建資金を捻出するため瓢箪池(ひょうたんいけ)周辺の土地を売却し、新世界ビルや映画館が建設された。
しかし、この娯楽の殿堂も1972年に廃業している。同年から「フランス座」で芸人修行を始めたビートたけしは、取り壊し前の新世界ビルを横目にしながら、毎日、安アパートと劇場を往復していたのだろうか。2度と灯ることのなく埃にまみれた屋上のネオン、シャッターを閉ざしたままの廃ビル。これもある意味、浅草が最も寂れていた当時を象徴する眺めだろう。
この頃は、東武浅草駅から六区へとつづく新仲見世や浅草寺門前の仲見世も、平日の人通りは少ない。行き交う人々の平均年齢は僻地の限界集落なみ。若者の姿などはまず見かけない。当時はまだ20代、過激なニューウェイヴの感性は老人との相性が悪そうだ。笑いを取るのは難しい。たぶん。
舞台は盛りあがらない。相方との反省会でいつもグダまく居酒屋は『浅草キッド』にでてくる「仲見世のくじら屋」。その店のモデルが現在は六区通りにある『捕鯨船』というのは有名な話。20年前この場所に移転してきたが、ビートたけしが「フランス座」の舞台に立っていた頃には、『花やしき遊園地』裏手の路地にあった。
現在の六区は再開発工事も完了して、垢抜けた感じになっている。けど、『花やしき』裏の狭い路地は、いまだ低迷期の浅草の雰囲気が……場末感が漂っていた。付近には昼間からやっている居酒屋もちらほら。
1軒入ってみよう。コロナ禍以前の浅草の居酒屋は、訪日外国人や下町観光の人々で平日昼間からどこも盛況。だけど、今回取材で歩いた際はおおむねガラ〜ンとして静かだった。『浅草キッド』の時代、70年代の寂れた浅草ってこんな感じか?
やっぱ、ここで注文するのは歌詞にもでてきたチューハイだよなぁ。昭和30年代の頃に東京下町を中心に広まった焼酎の飲み方。それが全国区に広まるのは、1980年代になってからのこと。バブル期に入る直前、果実風味を添加した炭酸水が販売されるようになり、若者たちの間でチューハイのブームが起こった。
それ以前のチューハイは、下町のローカルな酒だったのだろう。この頃はまだ、大勢が集って陽気に「一気!」と飲み干すような酒ではない。寂れた街の裏路地、客のいない居酒屋で報われぬ日々にボソボソと恨み言を吐き捨てながら。それが、いかにも似合ってそう。
取材・文・撮影=青山 誠