ミャンマー人コミュニティ「リトル・ヤンゴン」
「リトル・ヤンゴン」とも呼ばれる高田馬場の中心点は、駅前にそびえる雑居ビル「タック・イレブン」だろう。老朽化しているが内部にはミャンマーのレストランやカフェがいくつか入っており、さらに8階以上のフロアに足を踏み入れてみるとミャンマー食材や雑貨を扱う小さな店がびっしりと並ぶ。そこで売られているナマズのふりかけやら発酵させた茶葉やらミャンマーのインスタント麺やらを見ていると、どこの国にいるのかわからなくなってくる。ロンジー(巻きスカート)姿のおじさんも行きかう。
そんなタック・イレブンの麓だ。ビルとJRの高架の谷間に、小さな店が密集する路地がある。その一角、ごちゃごちゃとポスターやメニューが貼られた店の引き戸を開けると、一気に湿度が上がったような気がした。
ミャンマー人のおばちゃんたちがわいわいおしゃべりをしながら料理を運び、テーブルのお客と笑い合う。キッチンのほうからもなにやらミャンマー語の楽しげな声が響く。ひときわにぎやかなおばちゃんがこちらに気がつくと、
「ごめんね、うるさくて。はいこっち、どうぞ」
と親しげに声をかけてくれた。『ヌエウー』のおかみ、ミミ・ティンジョーさん(42)だ。
ほとんど「お宅訪問」感覚。生活感たっぷりの店
なにを頼もうか迷っているとミミさんがひょいと顔を出して、
「ダンバウがおいしいよ。うちに来るミャンマー人みんな食べる」
なんて言う。ミャンマー風の炊き込みご飯である。頼んでみると、どーんと大きなチキンが、カシューナッツやレーズンが混ぜられたご飯の上にのっかってやってきた。
「これね、マサラ(クミン、カルダモン、クローブ、シナモンなどだそうな)でしょ、チキンパウダーでしょ、ヨーグルト、唐辛子、塩、あと乾燥した玉ねぎでソースをつくって、それにチキンを漬けて、冷蔵庫でひと晩、寝かせるの」
それをじっくり煮込んだものだそうで、濃いめの味つけがぱらぱらのご飯によく合う。鶏肉はスプーンを入れただけでほぐれるほど柔らかく、スパイスの風味がよく染み込んでいる。
それからミャンマー料理で欠かせないのはラペットウッだろうか。発酵させた茶葉とニンニクや唐辛子、それにピーナッツなどの豆と和えた、いわばお茶サラダ。ミャンマーでは茶葉をおかずや調味料として広く使うのだ。
「こっちはね、お茶をお湯で湯がいてザルにあけて、やっぱり一日寝かすの。それとこれサモサはね、玉ねぎとポテトとスパイスを混ぜて……」
とにかくあれやこれやとしゃべって世話を焼いてくれるんである。ラペットウッを食べていると今度はスタッフらしき別のおばちゃんが、
「それゴハンにかけるとうまいよ! 食べる? サービス」
と問答無用の勢いで白メシを持ってきてくれる。
さらに、ひよこ豆を使った揚げ豆腐のトーフジョーをつついていたら、がらりと戸が開いてミャンマー人の女の子が早口で何ごとかを言い残して去っていく。どうもお持ち帰りの注文らしい。かと思えば日本人の牛乳配達のおじさんもやってくる。
「はーい、ありがとう!」
ミミさんが慌ただしく受け取る。
「これ子供に飲ませてるの。1週間ぶん7本が届くの」
ほとんどミミさんの家にお邪魔しているような店なのである。
どうして「ヌエウー」という店名なのか
「2021年4月に新しく開いたばかりなの」
やっと手を休めたミミさんが言う。もともと、すぐそばの飲み屋街・栄通りにミャンマーレストランを出していたそうな。いったん閉めた後こちらに移ってきたという。
日本に住み始めたのは2007年だ。先に来日していたお姉さんを頼ってきた。それからずっと、ミャンマー人の集住する高田馬場で働き続けている。
「3歳になる娘の保育園も近所だよ」
そんなことを話していると、今度はふたりの若いミャンマー人の女の子がやってきた。ミミさんは「きたきた」とばかりに傍らのボックスチェアを開けると、そこには古本がびっしり詰まっているのだった。日本語のものも、ミャンマー語のものもある。
「私たち、毎週日曜日にブックフェアをやってるんです。そこに出す本をミミさんに集めてもらってて」
高田馬場駅で小さな古本市を開き、その売り上げを軍の弾圧に苦しむ祖国に送るのだ。2021年2月にミャンマーでは軍がクーデターを起こして民主政府を転覆させ、以降ずっと圧政が続く。市民は春から抵抗活動を本格化させたが、その動きは国外に住むミャンマー人たちにも波及。思い思いの形で軍への抗議を続けている。一連の運動はスプリング・レボリューション(春の革命)と呼ばれるようになった。
「だからうちの店も“ヌエウー”って名前なの」
ミャンマー語で「春」を意味する言葉を、4月にオープンするときにつけたのだ。そして知り合いの日本人やミャンマー人から古本を集め、若い世代のブックフェア・デモに力を貸す。
そんなミミさんからたくさんの古本を受け取った女の子たちは、腹ごしらえにとモヒンガーを注文した。なまずで出汁を取ったスープに米麺を合わせた、これまたミャンマーのソウルフードだ。「おすすめです」と小鉢に取り分けてくれたので、ひと口すすってみると、臭みはなく優しい味わいだった。米麺と、とろみのあるスープがよく合う。
ミミさんの人柄か、『ヌエウー』にしばらくいるとこんな出会いがよく起こる。高田馬場に生きるミャンマー人たちが次々と顔を出す。「リトル・ヤンゴン」の人々の暮らしぶりを、垣間見られる店なのだ。
『ヌエウー(春)』店舗詳細
取材・文=室橋裕和 撮影=泉田真人
『散歩の達人』2021年12月号より