発掘調査の過程で、文科大臣や総理の視察もありました。文化庁の文化審議会文化財分科会は「緊急に保存に取り込む事案」として審議が急がれ、一部の遺構は国の重要文化財に指定されました。港区東新橋の史跡「旧新橋停車場跡」に追加して「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」へと名称変更されることになります。(参照:9月17日付「官報」本紙第578号、文部科学省告示第158号https://kanpou.npb.go.jp/20210917/20210917h00578/20210917h005780001f.html)
築堤跡は約800mあり、120m相当の一部は現地保存、移築保存、土中保存がされます。それ以外は、現地にて写真や実地調査をして解体される記録保存となります。「廃なるものを求めて」では、「行灯ごろしのガード・第9回」で高輪築堤の空撮を紹介しました。
現在の高輪築堤はどうなっているのか、現地では港区教育委員会の方から詳しい説明を伺いました。その説明をレポートに反映しながら、イチ見学者の目線で写真を紹介します。なお発掘調査はまだまだ時間がかかります。調査完了後、港区教育委員会から報告書が刊行される予定となっています。
なるべく細かくお伝えしたいので、また3回に分けての紹介となり恐縮ですが、しばらく高輪築堤特集をしますのでお付き合いくださいませ。ときおり私の拙い絵や、写真に注釈書き込みがありますがご了承ください。
見学した場所は高輪ゲートウェイ駅の真正面
港区教育委員会とJRが開催する高輪築堤の見学会は、過去に4回やってきて、今回が5回目となります。今までは「第七橋梁」と呼ばれる橋梁部分を中心に見学してきたそうですが、今回は高輪ゲートウェイ駅真正面のエリアとなりました。
このあたりは高輪ゲートウェイ駅直結のビルが建つ予定となっています。見学前に港区教育委員会から、高輪築堤と石垣についてレクチャーしてくれるので、鉄道の予備知識がなくても学べます。
現在、第一京浜道路沿いのビルが並んでいるところは海岸線でした。第一京浜の前身である旧東海道の護岸があったのです。明治維新直後はこの東海道沿いに薩摩藩邸や兵部省の敷地などがあり、当時は富国強兵策で『鉄道よりも軍事だ』という論調が強く、鉄道土地取得が困難となります。
では「陸がダメなら海だ」と、その海岸線から10〜20m離れたところに海上築堤を設置して鉄道を通すことになりました。その経緯では当時の民部大輔・大隈重信の英断があったと言われています。ちょうどいま放送中の大河ドラマで、渋沢栄一や薩摩と喧々がくがくしているお方です。
日本は江戸末期に黒船迎撃のためお台場を築いていましたので、海上に堤や島をつくることは技術的に問題ありません。数百年も昔から築城技術が培われて発展し、そこに西洋の技術も入り、いわば和洋折衷の状態で鉄道海上築堤が築かれたのです。築堤は当初複線幅で築かれ、後に線路3線化のため山側へ増幅されました。
築堤の構造を知る
築堤の法面は、盛土の上から「裏込石(うらごめいし)」と呼ぶ細かく砕いた雑石を積み、その上に石垣を載せます。雑石が滑り止めとなって石垣が滑らず、また雑石には隙間があるため水抜き構造となっており、石垣面へ水が滲み出るのを防止してくれます。
海側は30°の傾斜角で石垣が積まれ「布積み」と呼ぶ、石と石の継ぎ目が一直線となる積み方をしています。山側の第一京浜側(以下、山側)は谷積みと呼ぶ、石を斜めにして落とし込んでいく方法で、繋ぎ目はV字の形状をしています。傾斜角はほぼ直立していました。両サイドの石垣の土台部分には板材(胴木という)が敷かれ、この板材はボルト止めされており、ここには西洋の工法が取り入れられていました。
線路は当初単線で開通。1876(明治9)年に複線化しました。築堤の幅は当初より複線分の幅があり、線路が敷設される笠石部分を移設し、山側の法面を増しました。笠石とは石垣やレンガなどの上部に被せる石のことです。
興味深いのは、史跡へ指定された「第七橋梁」は西洋的な工法と日本古来の方法がミックスされたことです。橋台部分は直立する切石を綺麗に積み上げており、積み方はレンガ積みを連想させる組み方をしました。かたや築堤部分の石垣は日本古来の方法で施工され、橋台は石の接合部の目地に漆喰を用いて接着剤としたのに対し、築堤部分の石垣は目地に何も接着しない「空積み」と呼ぶ方法で施工されました。
今回の見学では、残念ながら「第七橋梁」を見られません。というのも、調査の終了した「第七橋梁」をいったん土で埋没させて保管し、ビル建設のためのトラックヤードエリアを仮設置します。ビルなどが竣工したら、再び掘りおこして史跡として再整備し公開するとのこと。土に埋めたほうが、損傷や大気による劣化が少なく安全だとのことです。「第七橋梁」よ、数年後にまた会いしましょう。
築堤断面を見ると複線から3線化となった構造が分かる
さて、いよいよ見学です。高輪ゲートウェイ駅と第一京浜を結ぶ道路近くの遺構です。記録保存のため築堤を解体することで、複線から3線化へ移行する工事の過程が判明しました。見学場所は山側の石垣です。
山側は波の衝撃がないため、緩やかな傾斜を持たず直立するように石垣が積まれている状況が、目の前で分かります。面白いのは、1872(明治5)年の鉄道開業時の築堤石垣が土に埋もれ、その外側にも築堤が拡幅されていることです。これは明治32年の3線化拡幅によるものです。山側には「胴木」と呼ぶ板張りが地面にありますが、この上に3線化した石垣が新たに築かれました。明治初期の石垣を埋めて土を盛り、さらに外側に新たな石垣を直立させて築いた痕跡がそのまま残っているのです。
従来の石垣を埋めて、さらに石垣で覆う。はて、どこかで聞いたような。あ、大阪城。徳川家康は豊臣秀吉が築いた石垣を隠すように、一回り土盛りして石垣で覆ったという話を思い出しました(笑)。
拡幅工事の為に旧石垣を撤去せず、さらに覆うというのはどうなんだろうと思いましたが、旧石垣で固められた築堤部をわざわざ崩さず、そのまま埋めて拡幅したほうが強度的にも信頼があったということでしょうか。
なお築堤の幅についてですが、開業当初は17.5mあり、複線化に対応する幅でした。それが3線化して20.7mへ広がります。海側の傾斜のある法面部分は6mの幅がありました。
石垣はお台場などから流用された
目の前にある複線時代の旧石垣は地面から3段ほどしかありませんが、解体前はもっと高く、3m近くの高さがありました。そのうち2mが海面から覗いていたのです。すでに撤去された石垣があるということは、目の前のものもそのうち撤去されていきます。現在は1つずつナンバリングして、どこから何が出てきたか記録を取る段階でした。
この石垣は、お台場の未完の「第七台場」から流用しました。石の種類は安山岩などで、真鶴近辺から産出されたものを使用しています。そのほか、旧東海道の護岸なども流用していたそうで、近場にあって不要なものを転用したのでしょう。発掘調査が進むうち、築堤の中の土には火災にあった瓦礫も混ざっており、北側(田町側)のほうは土が足りなくなり、周辺からなんでもかんでも使用していたのではなかろうかと推測されます。
調査した800mの築堤だけでも、莫大な量の石を使用しています。いくら手近な施設から流用するといっても限界があり、新たなに発注しているのではないかとも考えられています。流用資材が足らなくなり新規発注したのか、あるいはその逆か。推測の域を出ないとはいえ、見学会ではこうして現場で知り考察することのでき、新たな発見もあります。
撤去された石は、高輪ゲートウェイ駅真正面の敷地内広場にて、ナンバリングされた状態で大量に転がっています。ナンバリングは気の遠くなりそうな作業ですが、埋蔵文化財を後世に残すには必要不可欠な作業です。これは駅舎前のコンコースからでも見えますね。
ということで、1回目はここまで。見学会はまだ続きますがレポートの方が長くなったので、あと2回続きます。続きをお楽しみに!
取材・文・撮影=吉永陽一