かつて洗足池畔には幕末の英雄・勝海舟の別荘があった。海舟といえば、西郷隆盛との江戸無血開城で知られる。この談判により江戸の町は戦火から免れたものの、更なる条件交渉のため、海舟は池上本門寺の官軍本営まで、数度足を運んだ。
官軍でひしめく東海道を避けるため、裏道の中原街道を利用した海舟は、道中、洗足池の辺りで何者かに襲われたのか、竹やぶにひそんでいたところを付近の茶屋に助けられ、何とか池上本門寺にたどり着いたのだという。この時、当地の風光に魅せられた海舟は明治24年(1891)から翌年にかけて、ここに別荘「洗足軒」を設けた。
海舟は明治32年(1899)に病没するが、その亡骸(なきがら)は自身の希望で「洗足軒」に隣接する池畔に葬られた。さらに、墓の意匠も自身によるものだ。
大正末年に 「洗足軒」 が近隣に移された後、昭和3年(1928)に幕末維新関係の資料や海舟遺蹟の保存、講演などを目的とした「清明文庫」が建てられた(開館は昭和8年)。この建物を活用し、2019年に誕生したのが『大田区立勝海舟記念館』 だ。
館内には海舟の書や所用品、写真など貴重な資料の数々が展示されており、かつて講堂だった2階では映像展示を行っている。ここは、海舟を師と仰ぎ、幕末〜昭和を生きたジャーナリスト・徳富蘇峰が講演を行った場所でもある。
海舟より蘇峰へとつながれた幕末から戦後を紡ぐ糸
海舟と蘇峰は40歳の年齢差だが、その関係は密接だった。蘇峰の父・一敬は海舟が深く畏敬した横井小楠の高弟である。そんな縁から、一時期蘇峰は海舟の屋敷地(赤坂氷川邸)内に居住していた。蘇峰が病に臥(ふ)せた折には、海舟は「焦るな」と穏やかな忠告の書簡を送ったりもしている。
昭和12年(1937)、海舟の墓所に建てられた海舟・西郷を讃(たた)えた碑の詩を認(したた)めた蘇峰は、その除幕式の際に講堂で講演を行った。その交流の一端は、同じく大田区山王にある 『山王草堂記念館』 でも垣間見ることができる。
幕末からつながる海舟の思想は、その息吹とともに糸となり、蘇峰を経て昭和へとつながれていったのだ。
【海舟が愛した別荘 】洗足軒
「洗足軒」は、現在大森第六中学校がある場所に造られた。その後、現『大田区立勝海舟記念館』西側に移転され、戦後に焼失した。
【洗足池】大田区立勝海舟記念館
モダンな建築の中で、勝海舟に触れる
昭和初期に建てられた旧「清明文庫」を活用した記念館。海舟の手紙や愛用の品などが展示されており、在りし日の姿を感じることができる。海舟が渡米した咸臨丸での航海をCG映像で体験できる「時の部屋」は必見。海舟が交流した幕末の人物との関係を知ることができるほか、企画展も定期的に開催されている。ネオゴシックのモダンな建物も魅力のひとつで、洗足池周辺の散策と共に立ち寄りたい。
【洗足池】勝海舟夫妻の墓
墓所に見る海舟と蘇峰の絆
明治32年(1899)に亡くなった海舟の墓。海舟の遺言によりこの地に建てられ、墓の意匠も自身が描いた絵に基づいている。厳めしい栄誉称号が刻まれた同時代の人々の墓と比べ、ただ「海舟」とのみ刻まれたこの墓石こそが、海舟の人となりを表す。墓石の揮毫(きごう)は、このほどの『大田区立勝海舟記念館』の研究で、徳川家達の筆とわかった。
【大森】山王草堂記念館
海舟と蘇峰のつながりを実感!
【池上】池上本門寺
維新後も関係の深い、日蓮宗大本山
海舟は西郷との無血開城談判の後、条件交渉のため、官軍が詰めていた池上本門寺に何度か足を運んだ。維新後も海舟と池上本門寺の関係は深く、自身の書をはじめ、秘蔵していた加藤清正による法華の曼荼羅(まんだら)や大塩平八郎の書いた法華経を奉納している(1945年の戦災により消失)。また、墓所には海舟の娘も眠っている。境内自由。
《ひょっとしてこの竹やぶは……?》
取材・文=三澤敏博 撮影=オカダタカオ、金井塚太郎 写真提供=大田区立勝海舟記念館
『散歩の達人』2021年10月号より