渋沢栄一 青天を衝け 深谷大河ドラマ館(高崎線 深谷駅)
大河ドラマの世界を再現 名シーンの数々が蘇える
大河ドラマ『青天を衝け』の放映に合わせて深谷生涯学習センター・深谷公民館1階にオープン。館内に一歩足を踏みいれるとそこは別世界。ドラマの舞台を再現したセットや実際に使われた衣装などが展示されており、まるで登場人物になったかのような気分が味わえる。
こちらのスペースは、ドラマに登場した栄一の生家を再現。実際の撮影セットに迷い込んだようなこの臨場感を見よ! 今にも栄一一家の団らんの声が聞こえてきそう。
資料は、手が届きそうなほどの間近で鑑賞できる。小道具作成にあたってのうんちくや出演者のコメントなどを記した解説パネルがあるのもファンにはうれしいところだ。
『渋沢栄一 青天を衝け 深谷大河ドラマ館』詳細情報
旧渋沢邸 「中の家」(高崎線 深谷駅)
アンドロイドがお出迎え! 帰郷した栄一が過ごした邸宅
「中の家」と書いて「なかんち」と読む。栄一の生誕地に立つ主屋は、栄一の妹夫婦が1895年(明治28)に再建したものである。2階の屋根の上には「煙出し」と呼ばれる養蚕用の天窓がある。
中には入れないが、主屋周辺をぐるりと散策することは可能。歴史を感じさせる調度品や凝った意匠は、レトロ建築ファンならずとも見入ってしまうはず。
帰郷した栄一が寝泊まりしたという奥の部屋には「渋沢栄一アンドロイド」が! 80歳ごろの姿をイメージしているそうで、好々爺然としたゆるやかな動作にほっこりさせられる。アンドロイドは2021年12月26日までのプレ公開。
『旧渋沢邸 「中の家」』詳細情報
誠之堂・清風亭(高崎線 深谷駅)
第一銀行行員たちが栄一のために建てた記念堂
1873年(明治6)、栄一は日本で初めての銀行「第一国立銀行」を創設。その後、改組により誕生した「第一銀行」では初代頭取を務めた。1916年(大正5)、頭取を辞任した栄一の喜寿(77歳)を記念して、行員たちの寄付金によって建築されたのが、こちらの『誠之堂(せいしどう)』だ。もともとは東京都世田谷区にある建物だったが、1999(平成11)に大寄(おおより)公民館の敷地内に移築された。
建物は、玄関、化粧所、次之間、大広間、ベランダで構成されている。設計は、大正期の名建築家・田辺淳吉が手がけており、大広間の曲面をなした天井が見どころのひとつ。暖炉上部には栄一の肖像レリーフが設置され、訪問者を出迎えてくれる。
大広間で中国風の珍しいステンドグラスを発見。石扉中央に座した緑の服の貴人は、栄一をイメージしているのだとか。祝宴の光景らしく、なんだか楽し気な雰囲気だ。
『誠之堂』と隣り合って立つのが『清風亭』だ。1926年(大正15)、当時の第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して建てられた。ざらりとした掻き落とし仕上げの白壁や屋根のスパニッシュ瓦、ベランダのアーチなどは、当時流行していた「南欧田園趣味」を取り入れたもの。
館内には、建物維持管理のための寄付金コーナーが。寄付した人は、誠之堂・清風亭の記念カードがもらえる。思い出に一枚いかが?
『誠之堂・清風亭』詳細情報
日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設(高崎線 深谷駅)
シンボリックな煙突が目印 近代化を支えた煉瓦工場跡地
誠之堂・清風亭の北側を流れる小山川に沿って、東におよそ3kmの場所にある。近代化が進む明治時代、政府は官庁街に煉瓦造りの建物群をつくろうと栄一に機械式煉瓦工場設立への協力を要請。栄一の尽力によって、1888年(明治21)、煉瓦づくりに最適な粘土がとれるこの地に「日本煉瓦製造株式会社」が設立された。現在、会社事務所だった「旧事務所」は、深谷における煉瓦製造業の歴史を伝える史料館になっており、年末年始を除く土・日曜のみ見学できる。
旧事務所のそばには、煉瓦づくりの可愛らしい「旧変電室」が。工場の動力を蒸気機関から電動機に切り替える際に建てられたという。
旧事務所の南側には「ホフマン輪窯(わがま)6号窯」が残っている。ドイツ人技師ホフマンが考案した連続焼成が可能な窯で、1907年(明治40)の初稼働からおよそ60年間、工場の煉瓦製造を支えた。保存修理工事中のため外から眺めることしかできないが、天高く伸びる煙突は思わず息を飲んでしまう迫力だ(見学再開は2024年頃を予定)。
『日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設』詳細情報
聖天山歓喜院(高崎線 熊谷駅)
渋沢一族も目を奪われた? 国宝に選ばれた極彩色の本殿
1197年(建久8)創建の古刹。現在の熊谷市周辺に拠点を置いていた武将・斎藤別当実盛公が開創したと伝えられており、地元の人からは「妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)」や「聖天(しょうでん)さま」の名で親しまれている。希少な建造物の宝庫で、境内へ通じる「貴惣門(きそうもん)」は国指定文化財、境内に残された鎌倉時代の石碑「板碑」は県指定文化財、そのほか「四脚門」や「鐘楼」「仁王門」「三宝荒神社(さんぽうこうじんじゃ)」など境内をちょっと歩くだけで文化財が目にとまる。
極めつきは、国宝に指定された本殿「歓喜院聖天堂」。長い歴史のなかで何度か再建されており、現在の建物は、約44年の歳月をかけて1779年(安永8)に完成を見た。装飾は見惚れるほどの鮮やかさで、随所に施された動物の彫刻はどこかユーモラス。絢爛豪華な佇まいから「埼玉日光」といわれている。
渋沢一族とも深い縁がある。栄一の自叙伝『雨夜譚(あまよがたり)』によると、少年時代に剣術稽古で妻沼を訪れた際に妻沼聖天山を参拝。歓喜院で昼食をごちそうになったのだそう。また、縁結び通り(県道59号)沿いにある西側の参道には、栄一の伯父にあたる渋沢宗助が1867年(慶応2)に奉納した石灯篭も。150年近く経っても風化することなく、当時の風情をいまに伝えている。
『聖天山歓喜院』詳細情報
高崎城址(高崎線 高崎駅)
栄一が乗っ取りを企てた城郭の一部が今なお残る
1598年(慶長3)、徳川家康の命を受けた箕輪城主・井伊直政によって築城された「高崎城」。城郭は5万坪にも及び、関ヶ原の戦いのときは、徳川秀忠率いる3万5千の大軍を三の丸と城下の寺院に逗留させたとも伝わる。
じつは、栄一はこの高崎城の乗っ取りを企てたことがある。20代で倒幕思想を抱いた栄一は、学問の師であり従兄の尾高惇忠らとともに、高崎城の武器・弾薬を奪い、横浜外国人街の焼き討ちを計画。結局、幕府の知るところとなり、渋沢は京都に逃れることに。もし決行されていたら、“近代日本経済の父”の未来はどうなっていたのやら……。
現在、城郭の一部は「高崎城址」として高崎城址公園内に保存されており、近隣のオフィスワーカーたちの憩いの場になっている。
公園の一角には、本丸の収蔵庫として使われていた「乾櫓(いぬいやぐら)」が。明治維新後に農家に払い下げられていたが1976年(昭和51)に現在の位置に復元移築されてきた。
武士や商人の通用口に使われていた「東門」も復元移築したもの。乾櫓と東門の並びは、当時の風景を切り取ったような空間になっている。
『高崎城址』詳細情報
渋沢栄一にちなんだメニューやグッズを紹介する、近日公開の⑤に続きます!
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取材・文・撮影=名嘉山直哉 撮影=河野豊(深谷大河ドラマ館、旧渋沢邸「中の家」)