おいしければ人は来る
『遠野屋』は東西線南砂町駅から徒歩6分、丸八通り沿いにある。こう書くといい立地のように思えるが、店の前を走る丸八通りは車の通りが多くて店も少なく、どこか殺風景な雰囲気だ。また、南砂町はマンションや商業施設が相次いで建ち、住民人口も増えているのだが、それは駅の南側の話。『遠野屋』のある北側は公団こそ多いが商店街も寂れ、どこか置いていかれた雰囲気が漂っている。
しかし、そんな場所にあっても『遠野屋』は人気だ。もともと客層がドライバーメインのロードサイド店なので、周囲の雰囲気とは関係なく、おいしければ人はやってくるのだ。
『遠野屋』のそばは、なによりツユがいい。鰹と鯖の節でとった出汁はやんわりとした旨みをたたえていて、かえしは尖りすぎずにじんわりと旨いツユになっている。天ぷらも揚げ具合よく、ツユとよくなじむ。そばはゆで麺だが、ポテっとした食感が優しい味わいのツユに合っている。すごくちょうどいい、的を射た旨さなのだ。
ちゃんと作り込まれたそばを出しているし、ご主人も女将さんもベテランなので、『遠野屋』は古い店だと勝手に思い込んでいた。しかし、聞いてみるとオープンしたのは2005年で、今年で16年。『遠野屋』は荒井幸夫さんと妻の成子さんで営んでいるのだが、幸夫さんはもともとサラリーマンで、退職をしてから始めた店だったのだ。
妻の成子さんが支えた開店当時
サラリーマン時代から「いつか立ち食いそば店をやってみたい」と考えていた幸夫さん。そんなとき、お世話になった不動産業者から、居抜きでいい物件があると現在の店舗を紹介された。飲食店の経験はゼロの幸夫さんだったが、妻の成子さんは長く会社の社員食堂で働いていたため調理の経験は十分。店は成子さんに任せることにして、立ち食いそば店を始めることを決意したのだ(幸夫さんは退職後に店を手伝うことになる)。
しかしオープンしてしばらくは、苦しい日々が続いていた。店の前を通る人は、近くの団地に住む通勤客がほとんどで、店に入ってはくれず。前を通る車も、店ができたことに気づいたとしても、急停車するわけにもいかないため、なかなか立ち寄ってはくれない。
しかし、そばの旨さがドライバーの口コミで徐々に広がり、オープン3カ月後にはけっこうな客入りに。辛抱強く、おいしいそばを作り続けたことが報われたのだ。当時は駅北側の商業施設が建設中だったこともあり、早朝から職人さんでずいぶん賑わったそうだ。今もお客さんはドライバー、職人がメイン。取材をしていたときも、午後の遅い時間でも、途切れることなく人が入ってきていた。「うまくいったのは、妻のおかげです」幸夫さんは、少し照れたように成子さんに感謝していた。
カレーライス絶妙な旨さ
夫婦が支え合ってここまできた『遠野屋』は、そばだけでなくカレーも旨いと評判だ。3種類のルーをブレンドし、スパイスを加えて仕上げるカレーは、もったりめ。しっかりとした旨味が特徴で、辛みはほどよく、そばと一緒に食べるのに合う。これまた、ちょうどいいよさなのだ。
話を聞いている間、開け放された扉の向こうからは、終始、車の走る音がゴウゴウと聞こえてきた。それでも、この店のカウンターに座っていると、そんな音は気にならず、なんだか落ち着いていられる。取材中に食べていたお客さんも、なんだかゆったりした雰囲気でそばをすすっていた。それはきっと、荒井夫妻の醸し出す雰囲気と、そばのちょうどいい旨さのおかげなのだ。
取材を終え、歩いて駅の南側に出てみた。家電量販店にドラッグストア、生活に必要な店がズラッと並び、その先にはイオンが見えた。すごく便利なのかもしれないが、そこには『遠野屋』がない。残念なことである。
取材・文・撮影=本橋隆司(東京ソバット団)