◆散歩コース◆
スタート
万年橋バス停
「吉田石間交流学習館」の大きな標識から石間川沿いの広い車道歩き。車はめったに通らない。
↓ 30分
沢口
沢口には民家が何軒か。店が1軒あり。先には加藤織平の墓がある。生家も近くに残っている。
↓ 40分
吉田石間交流学習館
漆木地区にある諏訪神社を過ぎて万年橋バス停から1時間少々で中郷地区へ。交流学習館がある。
↓ 20分
城峯山登山口(大鳥居)
途中から沢戸の山岳集落が見えてくる。登山口には大鳥居。右へ行けば半納。途中の近道で集落へ上がる。
↓ 40分
半納
100mほど上がると半納の車道へ出る。半納の横道の標識から火の見櫓へ。来た道を戻り大鳥居へ下る。
↓ 20分
沢戸
大鳥居から右折してすぐ左の坂を上がれば沢戸の集落。車道を進むと突き当るので、そこから引き返す。
↓ 25分
合流地点
家々の間を縫うような細い道を下れば車道に合流。後は車道をバス停までひたすら歩く。帰りは早い。
↓ 80分
ゴール
万年橋バス停


郷愁度:★★★
歩行時間:4時間15分
歩行距離:約13.5km

アクセス:[行き・帰り]池袋駅から西武線特急で西武秩父駅、約1時間20分。西武秩父駅から西武観光バス「吉田元気村」行きで万年橋バス停、約50分。

交通費: 4160円(往復)

城峯山登山口に残る山岳集落は、秩父事件の戦場だった

現在は秩父市。2005年までは吉田町だったが、その吉田町の石間(いさま)地区の山間部に半納(はんのう)と沢戸(さわど)という二つの集落があり、山の斜面にへばりつくように家々が立っている。沢戸には四十数軒の家があったが、今は半分程度、半納は十軒程度で人口は二つを合わせても100人を切っている。石間地区全体でも200人少々のようだ。その2集落を訪れてみた。

ここは公共交通機関を利用しようとするとアクセスが悪い。西武秩父駅からバスは1日数便あるが、バスを降りてからの距離が長く、1時間半はみなければならない。

沢口集落付近の石間川。取材時は5月で、ちょうどハヤの産卵期にあたり、川にはハヤの群れが。
沢口集落付近の石間川。取材時は5月で、ちょうどハヤの産卵期にあたり、川にはハヤの群れが。
漆木地区にある立派な諏訪神社と稲含(いなふくみ)神社。毎年、4、10月には漆木神楽が奉納される。
漆木地区にある立派な諏訪神社と稲含(いなふくみ)神社。毎年、4、10月には漆木神楽が奉納される。

そのスタート地点の万年橋バス停で降りた。道は石間川沿いにあり、集落の麓まではなんとなく上りの道。帰りは少し楽かもしれない。30分も歩くと、沢口という集落に着いた。店が1軒あり、飲みものなどの最終購入場所となる。

秩父事件の資料が展示されている『吉田石間交流学習館』。
秩父事件の資料が展示されている『吉田石間交流学習館』。

城峯山(じょうみねさん)への漆木(うるしぎ)登山口を過ぎて、中郷登山口のある中郷地区に入ると、廃校になった小学校があり、『吉田石間交流学習館』として利用されている。ここは予約制なので閉まっていると思っていたら、たまたま開いていたので見学させてもらう。秩父困民党の資料がいろいろ展示されていた。これから訪ねる山岳集落が、実は困民党の戦いの場だったことがわかった。

道路から見上げた沢戸の家々。道路から高さ100mほどは上がるだろうか。
道路から見上げた沢戸の家々。道路から高さ100mほどは上がるだろうか。
万年橋バス停から少し歩くと、道沿いにあった建物。土壁の構造がよくわかる。
万年橋バス停から少し歩くと、道沿いにあった建物。土壁の構造がよくわかる。
城峯山への入り口になる大鳥居。ここからの道は城峯神社への表参道となる。半納へ上がる道でもある。半納のさらに奥には太田部地区がある。
城峯山への入り口になる大鳥居。ここからの道は城峯神社への表参道となる。半納へ上がる道でもある。半納のさらに奥には太田部地区がある。

まもなく前方の山の斜面に家が出現した。たぶん沢戸の集落だ。バス停から歩くこと1時間半、ようやく山岳集落の入り口へと到着。大きな鳥居が立っている。ここは城峯山への表参道になる登山口なので、立派な鳥居があるのだろう。傍らの崩れかけた石柱に「城峯山入口」と刻まれていた。ここから半納へと上がる。

沢戸集落から見た半納。直線距離は1㎞ほど。集落の奥に展望台を兼ねたアンテナが立っている山が城峯山になる。半納登山口から往復2時間半程度。
沢戸集落から見た半納。直線距離は1㎞ほど。集落の奥に展望台を兼ねたアンテナが立っている山が城峯山になる。半納登山口から往復2時間半程度。
半納の家の壁に掛けられていた、もう目にすることもなくなった大八車。
半納の家の壁に掛けられていた、もう目にすることもなくなった大八車。
養蚕農家の造り。2階に縁をつけていて出し桁造り、船枻(せがい)造りと呼ばれる。
養蚕農家の造り。2階に縁をつけていて出し桁造り、船枻(せがい)造りと呼ばれる。

鳥居の先に石段があった。これは近道かと思い、そこから上がることに。遠回りの車道より近いけれど、急坂の山道。上がりきると、そこは半納の集落だった。川を挟んだ対岸の沢戸の集落が見える。集落の中を抜けて行くが、静かな村のようで誰とも出会わない。今も残っている古い家々は、養蚕農家の造りである。

半納集落の高台にある火の見櫓と常夜灯。櫓は再建されたもの。ここが秩父困民党と警察隊との横道の戦いがあったところだ。
半納集落の高台にある火の見櫓と常夜灯。櫓は再建されたもの。ここが秩父困民党と警察隊との横道の戦いがあったところだ。

吉田村の農民たちが武装蜂起した戦いの舞台が、そこに。

『学習館』で知った秩父事件の戦いの舞台、半納の横道と呼ばれる高台に向かう。火の見櫓と常夜灯があった。ここが明治17年(1884)、半納の全戸が参加して警察隊と戦った場所だった。櫓は再建されたもののようだが、上がってみた。隣の沢戸の集落がよく見える。

 

秩父事件を起こした困民党の副総理、加藤織平の墓が沢口地区にある。織平は困民党への助力を乞われて協力した人で、人柄が偲ばれる。東京神田で捕まり、裁判により蜂起の1年 後に死刑が執行された。享年36。
秩父事件を起こした困民党の副総理、加藤織平の墓が沢口地区にある。織平は困民党への助力を乞われて協力した人で、人柄が偲ばれる。東京神田で捕まり、裁判により蜂起の1年 後に死刑が執行された。享年36。

隣の沢戸には、いったん斜面を下りてから登り返す。沢戸からは今度は半納の家並みが見えた。

沢戸の人は、不便なところだけども、暮らしやすいと話してくれた。「夏は涼しく、冬は下の秩父より暖かいし」と言っていたのは決して負け惜しみではないだろう。

 

さんぽMEMO
城峯山への登山ルートは、漆木と中郷地区からもあるが、いずれも少々ハードなコースになる。大鳥居のある半納登山口か男衾登山口からが比較的楽なコース。城峯山へは上り約1時間半、下り約1時間程度。
アドバイス
半納、沢戸地区には標識などはないので2万5000図の地形図がいい。西武観光バスは平日の最終が18時19分。土休日は17時9分になるので乗り遅れないように。

吉田石間交流学習館

明治時代に起こった秩父事件の資料を展示

旧石間小学校を利用した資料館。秩父事件の関係資料を展示している。秩父事件とは、明治17年(1884)11月1日に吉田村で起こった困民党による武装蜂起事件。増税や負債に追い詰められた農民が武装蜂起するが、警察、憲兵隊に鎮圧された。裁判で死刑7人、約3800人が暴徒として処罰された。

 

●13:00~16:00、入館料300円。1~3月は閉館。週末の金・土・日の開館、万年橋バス停から徒歩1時間10分。☎0494-72-6083

取材・文=清野編集工房
『散歩の達人 首都圏日帰りさんぽ』より

『散歩の達人 首都圏日帰りさんぽ』より、旅先で気軽に楽しめる散歩コースを紹介。歩行時間や歩行距離も明記しておりますので、週末のお出かけにご活用ください。房総の鋸南町、安房勝山駅近くに低山なれど大展望の大黒山が、東京湾を見張る櫓のようにそびえている。この展望台から海岸線を保田まで歩いてみよう。
『散歩の達人 首都圏日帰りさんぽ』より、旅先で気軽に楽しめる散歩コースを紹介。歩行時間や歩行距離も明記しておりますので、週末のお出かけにご活用ください。映画『のぼうの城』やドラマの『陸王』の舞台となった行田は、城の街であり、足袋の街であり、そしてさらに古代へ遡った古墳の街でもある。
『散歩の達人 首都圏日帰りさんぽ』より、旅先で気軽に楽しめる散歩コースを紹介。歩行時間や歩行距離も明記しておりますので、週末のお出かけにご活用ください。飯能市の西の端、秩父市に接する山の尾根上に原っぱのようなウノタワという場所があるという。ちょっとした不思議空間である。そこは入間川の源頭部にあたり、横倉入(よこくらいり・ナギノ入)という沢の上部にある。
『散歩の達人 首都圏日帰りさんぽ』より、旅先で気軽に楽しめる散歩コースを紹介。歩行時間や歩行距離も明記しておりますので、週末のお出かけにご活用ください。今回は、蔵の街で知られる栃木県栃木市。江戸時代直前は城下町だったことも。その後、日光例幣使街道の宿場町としてにぎわいを見せ、巴波(うずま)川の舟運によってさらに隆盛を極めた。その証が、今も残る多くの蔵だ。
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