タンゴブームに沸いた時を今に残す貴重な喫茶店
神保町の喫茶店の中でも、一二を争う老舗『ラドリオ』。そのはす向かいに店を構えるのは、タンゴ喫茶『ミロンガ・ヌオーバ』だ。ご存じの方も多いだろうが、この2店は姉妹店である。『ラドリオ』の創業から4年が経過した1953年に『ミロンガ』は誕生した。
『ミロンガ』が営業を開始する以前は、『ランボオ』という名の喫茶店が営業を行っていた。とある出版社が1947年に創業したその店には、三島由紀夫や遠藤周作、吉行淳之介ら、今では名高い作家たちが頻繁に集っていたようだ。
そんな『ランボオ』の後身として『ミロンガ』がオープンした当時、日本ではアルゼンチンタンゴの人気が高まっていた。その流れもあり、シャンソン喫茶として人気を集めていた『ラドリオ』に対して、『ミロンガ』はタンゴ喫茶として営業するようになった。開店すると、瞬く間にタンゴ好きのたまり場となった『ミロンガ』。ブーム全盛期には、プロの演奏家を招いてコンサートを開催することもあったという。愛好家たちは、人気のアルゼンチンタンゴをBGMに、昼夜タンゴ談義や情報交換に興じていたようだ。
現在もBGMは当時のまま。レコードプレーヤーからスピーカーを通して奏でられるアルゼンチンタンゴは、レコードならではの独特のノイズとともに、心地よく店内を包み込んでいる。店長の浅見加代子さんによると、この店にあるレコードは当時のものに加えて、タンゴブーム全盛期に通っていたお客さんやその遺族による寄贈品で構成されているそうだ。「お客様からいただくレコードの数もどんどん増えていって、今では新たに別の棚を設けて収納しています」と、にこやかに話す。
アルゼンチンタンゴの名盤がすべてこの店に集まっているのではないか、と思うほどのレコードの数々。さらに、店内に飾られている写真やサインなども、すべてアルゼンチンタンゴにまつわるものである。そして、そのほとんどがお客さんから譲り受けたものなのだそうだ。一角に展示された、バンドネオンと呼ばれるアルゼンチンタンゴに欠かせない楽器も、お客さんからの寄贈品だ。
『ミロンガ』の第2のスタート
外観、内装ともに、積み重ねてきた歴史を感じる風情がある同店だが、浅見さんによると1995年に大きな改装を行っているのだという。「その頃にテーブルとイス一式、そしてメニューの一部をリニューアルしています。テーブルは、お客様の使い勝手を考え、広いものに変えました」。浅見さんがそう話すように、それから25年近く使い込まれているテーブルは、店内の雰囲気にマッチした深い趣を感じさせる。
看板にも記載のある炭火焙煎コーヒーと世界のビールをメニューに取り入れはじめたのも、1995年のリニューアル時からだったようだ。それ以来、炭火焙煎されたコーヒー豆を仕入れ、オーダーごとに豆を挽き、ハンドドリップするという本格コーヒーを提供している。新型コロナがきっかけとなり、2020年から豆の店頭販売も行い、その取り組みがお客さんから好評を得ていると、浅見さんは話す。
店名を冠したピザ・ミロンガも、リニューアルによって新たに加わったメニューの一つだ。この店のオリジナルピザは、トマトソースをベースに、スライスされたゆで卵とサラミ、オリーブがのった、ちょっぴり大人な一枚。生地はもっちりとしており、食べ応えもある。ドイツやベルギー、イギリスなどから厳選された世界各地のビールとぜひ味わいたい。
実は、店名も1995年に『ミロンガ・ヌオーバ』へと改名されている。それまでは、アルゼンチンタンゴの曲の一種から取った『ミロンガ』のみだったが、リニューアルを機にスペイン語で“新しい”を意味するヌオーバを加えた。
近年は、タンゴブームを知らない若い世代のお客さんも増え、会社帰りに一人の時間を楽しむ女性客の姿も目立つという。創業当時のコンセプトや面影は大切に残しながら、少しずつアップデートを加え、今の『ミロンガ・ヌオーバ』らしさを築き上げてきた。これからも、昭和の一時期を残す喫茶店として、多くの人々に歴史を伝え続けてほしいと感じた。
『ミロンガ・ヌオーバ』店舗詳細
取材・文・撮影=柿崎真英