フクシマ山盛りだった聖火リレースタートのセレモニー
聖火リレー初日の朝、福島県楢葉町にあるJビレッジでセレモニーが開催された。
この会場自体もある意味「復興の証」だった。大震災後の福島第一原発事故処理作業にあたる人たちの一大拠点となったのがJヴィレッジで、関係車両が人工芝の上にずらりと並び、一時は見る影もなかったらしい。
それが今、本来の「ナショナルトレーニングセンター」として美しく蘇っていた。
ここを拠点として活躍していたなでしこジャパンは、2011年の優勝メンバーたちとの再会も果たせて、聖火を掲げて走りながら本当にうれしそうでうれしそうで、こぼれんばかりの笑顔だった。やはり炎は人と人を引き寄せるのか
ステージでは福島県を代表する相馬野馬追の出陣式や大太鼓演奏、マーチングバンドにフラダンスなどがにぎやかに演じられて楽しかった。そんな中、ふと気になったのは来賓の方々の挨拶だった。東京方面からの来賓は「復興の証として」と語っていたのに対して、最後にマイクの前に立った内堀雅雄福島県知事は「復興した姿だけでなく、道半ばの姿も世界に発信したい」と言葉を添えた。
知事が言いたいのはあの光景だ、と私は前日に目の当たりにした大熊町の現状を思い起こした。そしてステージに並んだ地元小中学生による『花は咲く』の歌声に、目頭が熱くなった。
あまりにも知らな過ぎた大熊町のこと
聖火リレーは少々特殊な取材だ。県内をぐるぐる回るわ、交通規制はあるわ。そこで私とカメラマンの夫は前日に候補地を数カ所下見することにした。しかし巡るうち、ある土地に釘付けになった。それが大熊町だった。
なんというか「自分たちがこの町のことも原発事故のことも全然わかっていなかった」ことに衝撃を受けたのだ。そしてつい3日も通ってしまった。こりゃ「復興探し」どころじゃないわ。その「復興する前」を知らないのだから。
何を知らなかったのか。本当に恥ずかしながら白状するとこんな感じだ。
- 福島第一原発は北隣の双葉町との2町にまたがっているが、爆発が起きた1号機から4号機はどれも大熊町にあること。双葉町側の5・6号機より標高が数メートル低く、津波被害がより大きかったらしい。
- 事故以来、長く全町避難していたが2019年4月10日に一部が避難指示解除となり、役場や災害復興住宅などが建設されていること。といってもそれは町の面積のわずかな部分であること。
- 町民として登録されているのは現在でも1万人以上だが、多くは2年前まで役場ごと避難していた会津若松市やいわき市などの町外に今も住んでいて、現在町内で暮らす人は300人弱であること。しかも町立小中学校は現在も会津若松市にあるので、戻った町民は主に子育て終了世代であること。
- 大熊町には町民の他に、町に住民登録がなく東京電力単身寮に住んで原発処理に当たる社員600人ほどが住んでいて、日々大型バスに乗って福島第一原発に通っていること。
- 試験的な稲作以外に、イチゴ栽培が始まったこと。
などなどまだまだあるが、町役場担当者の説明に「へえ〜!」の連続だった。
復興したのはほんの小さな三角形だという衝撃
そもそも私たちが大熊町を訪れたのは、役場への事前問い合わせ電話口での聖火リレー担当者の言葉が心に引っ掛かったからだ。
「聖火リレーコースの約1kmが復興した町の中心ほぼ全てなんです」」
どういうこと?
車で下見に訪れた私たちは、県道に掲げられた「大熊町役場」という看板を見つけて右折した。真新しい建物や工事現場を横目に車を進めるとすぐに周囲は荒凉たる景色となって、その先は許可書のない車は通行止めだった。監視員に尋ねると私たちはとっくに役場を通り越していた。
あっという間に通り越した真新しい町、これが聖火リレー担当者のいう「復興した大熊町の現在」のほぼ全てだった。
一般社団法人おおくままちづくり公社発行の「大熊マップ」を見てみよう。
地図の中央下部に緑色の三角形があるが、これがその「復興した大熊町の現在」だ。
その名も大川原地区復興拠点、真新しい公営住宅などに一昨年から町民が住み始めた。緑色とその周りの白色で表された地域は「避難指示解除地区」。もともと放射線量が低めだったり除染作業が済んだ土地だ。居住可能だが、ほぼ山林なので実質的には復興拠点の緑三角及びその周辺に住民は集約されている。この日、役場の放射線量計は0.08マイクロシーベルト/hを示していた。これならば場所や日よっては東京より少し高いぐらいかな。
次はオレンジ色に塗られた「立入規制緩和区域」。除染作業が進みつつあり、夜間は立ち入り禁止だが日中は自宅の掃除などに行くことができる。ちなみにこの地図は2021年4月発行の最新版で、私たちが3月にもらった昨年度の地図よりだいぶ面積は増えている。
車を走らせると、案外新しめの手入れされた家やガレージに車が止まっている家があった。着々と町へ戻る準備を進めているのだろう。
県知事のいう「いまだ復興半ばにある」世界をさまよう
そして車はピンク色の「帰還困難区域」に突入する。ここはまだ手付かずで車から降りてはいけない場所だ。突然、壊れかけた家々が目につき始めた。その敷地と道路の間には金属製の柵が立ちはだかっている。山が迫る場所の線量計は約0.8マイクロシーベルト/hを表示していた。
JR大野駅前に行ってみた。2020年3月14日に常磐線全線再開。本来の聖火リレー開催日直前だった。駅前通り自体は歩いていい場所だが駅前ホテルや商店はことごとく柵の先にあった。と、駅前の小さな建物に人の気配が。何の店だろうと駆け寄ってみると看板にはこう書かれていた。「放射線量計測貸出センター」。電車で訪れた町民が、家の掃除や墓参りで滞在中に持ち歩くものらしい。
駅前の電光掲示板には約0.2マイクロシーベルト/hと表示されている。
そういえば帰還困難区域入り口には監視員が立っているが、彼らの放射線量は大丈夫なのだろうか? 「役場の方によれば『法に基づき委託先業者が適切に管理しています』
『花は咲く』の歌がずしんと心に響く時
再び「立入規制緩和区域」を車で走ってみた。
農家らしき垣根の入り口にピンク色ののぼりがはためいている。 町内でイチゴ栽培が始まったというから、もしかしたらこの家も? とうれしくなって近づいてみたら違った。
のぼりにはこう書かれていた。『解体除染作業中』。
庭の奥の屋敷はもう半分以上壊されていて、翌日見たら建物は跡形もなく、その翌日には解体資材や汚染土をフレコンバッグに詰めているところだった。
その手際良さ。もう何百という物件を手掛け続けているのだろう。
垣根が並ぶ住宅街を通ると空き地があった。すでに『解体除染作業』が済んだらしき敷地はきれいに整地され、道路側には伐採したばかりの垣根の切り株が並んでいた。その合間に輝くばかりに黄色いスイセンの花が咲き誇っていた。
そうなのだ。町内をさまよった3日間、見かけるたびにハッと息を飲んだのが、手入れをする人も愛でる人もいなくなったのにそこかしこで咲き誇る美しい春の花々だった。
東日本大震災以降、よく耳にした『花は咲く』という歌がある。この題名が「花が」ではない理由がこの時初めてわかった気がした。
私たちが訪れた3月25日は、大震災後の10年と2週間後だ。
10年前、壊れ果てた被災地で呆然とする人間たちの境遇などお構いなしに、春を迎えて咲き誇る花々。地元の人たちはどんな思いで見つめたのだろう。
Jビレッジで聞いた地元小中学生の歌声が、大熊町滞在中ずっと私の脳内BGMとなった。
一見、昔ながらのにぎわいに見えるから落胆も大きかった
国道6号線に出た。日本中を旅することが仕事の私たちにとっては何度も通った道で、この辺は店が並ぶ地域以外は緑につつまれた風景の印象があった。でも9年前に茨城県から岩手県へと3泊4日で被災地沿岸を巡った時には、いわき市の北側で通行止めとなりこの一帯は迂回を余儀なくされたから、ずいぶんしばらくぶりだった。
あ、まだパチンコ屋や店があるじゃない、と、沿道の商店群に近寄ればそれらは全て例の柵の中だった。
やがて遠くに福島第一原発が見えてきた。その姿をテレビニュースでお馴染みの建物だから気づいたのかとも思ったが、それだけではなく国道の東側が延々と平らに整地されているせいだった。
「中間貯蔵施設保管区域」に指定され、木々や建物が取り除かれているのだ。この一帯に住んでいた人はきっともう戻ることはない。
国道6号線にも頭上に放射線量計があった。0.12マイクロシーベルト/h。
パチンコどころではないな。
最初に書いた通り、私たちは大熊町を訪れたのはほぼ初めてで、情けないことに大震災も原発事故もなんとなくニュースで見知ったおぼろげな知識しかない。
そんな大熊町初心者だからこそ、10年目にしてまだこの光景であることに、また自分自身が知らなかったことに衝撃を受けたのだ。
福島県の人たち聖火リレーに託した「復興した姿と道半ばの風景」はこれだったのか
とはいえ荒れ野に花が咲くように、大熊町にも人の息吹が蘇りつつあるのは確かだ。
役場周辺の公営住宅はすでに多くの人が住み、4月5日には商業施設も開かれた。これまでプレハブ小屋の中で営業していたコンビニや商店も移転したし、「昔通った喫茶店が復活するんですよ」と、地元の人もうれしそうだった。いずれ町立小中学校も復活するので子育て世代も町に戻ってくるかもしれない。
こうした新興住宅地だけでなく、「避難指示解除地域」には登録有形文化財に指定されるような立派な旧家や里山風景も残っている。自然の風景は相も変わらず季節を伝えて人の心を慰める。
広大な「道半ばの風景」の中に、10年経ってようやく若葉が芽吹いて、つぼみがほころび始めた小さな小さな花園。それが聖火リレー中継のお祭り騒ぎとともにで世界に発信された「復興大熊町」の風景なのだった。
取材・文=眞鍋じゅんこ
撮影=鴇田康則