東京のツユと川崎のツユ
立ち食いそばでも、地域によって味つけは微妙に変わる。立ち食いそばといえば、コクのあるかえしで濃い味つけののイメージがあるが、それは東京の都心部や下町など、限られたエリアのスタイル。横浜や川崎など神奈川エリアに行くと昆布の風味が強く、甘めな味つけのツユが多く見られる。
川崎市の浜川崎にある『いはら屋』のそばもツユは甘めになっている。東京の味に慣れた舌には、最初こそ物足りなく感じるが、食べすすめるうちに旨みがどんどん強く感じられるようになり、ズルズルとそばをすするのが止まらなくなる。
『いはら屋』のかき揚げには小エビが入っているのだが、その香ばしさも優しい味わいのツユとケンカすることなく、うまく混ざり合う。風味のガツンと強い東京の立ち食いそばもいいが、神奈川方面のツユもこれまた格別なのだ。
そんな『いはら屋』は、浜川崎の鋼管通り沿いにあるロードサイド店。お客さんのほとんどはドライバーさんや現場の職人さんで、そもそも電車で来る人は少ないのだが、最寄りの南武線浜川崎駅がなかなか味わい深いので紹介しよう。
味わい深すぎる浜川崎駅周辺
浜川崎駅はJR南武線と鶴見線の駅。南武線で行く場合は尻手駅で浜川崎支線に乗り換えて4つ目、終点の駅となる。無人駅で小ぢんまりとしていて、電車の本数も午後になると1時間に2本と、もろにローカル線。
それもそのはずで、この浜川崎駅は、もともと貨物駅として作られたもの。すぐ近くにJFEスチールがあるものの、そこに来る人は車か川崎駅からバスに乗るかなので利用客は極めて少ないのだ。
駅の周辺を歩けば、錆びた風情の線路、トラックのために作られたようなだだっ広い道路、関係者専用のような狭いアンダーパス。都心では見られない景色ばかりでゾクゾクしてくる。
変わる風景と変わらない味
さて、話を戻す。こんな工業の街で、『いはら屋』が開業したのは1970年。今年(2021年)でちょうど50年だ。現在のおかみさんが義父である先代から継いだのが、35年ほど前。その頃は鋼管通りにもたくさんの商店があって、にぎやかだったそうだ。
しかし時が経つうち、跡継ぎ問題などで閉店が相次ぐ。なにもなかった隣の市電通りに大型スーパーやファミレスなどができ、そちらのほうがにぎわうようになってしまったのだとか。
しかし、『いはら屋』には、昔から変わらずお客さんが通ってくれているという。すぐ近くに産業道路、首都高速浜川崎インターがあり、使い勝手は確かにいい。しかし、それだけではないだろう。開店以来、変えていないというツユの味、時代が変わったとしても慣れ親しんだ地元の味が、お客さんを惹きつけているのだと思う。
一番人気が肉うどんのワケ
ここで、一番の人気メニューを聞いてみたところ、ちょっと意外な答えが返ってきた。なんと肉うどんがよく出るというのだ。
実はすぐ近くに川崎市立臨港中学校があるのだが、そこの生徒が学校帰りによく食べに来ていたのだという(おおらかな時代だったのです)。育ち盛りの中学生。やはり食べるのはボリュームのある肉うどん。そんな彼らが卒業後も店に通ってくれ、変わらず肉うどんを注文するのだとか。みんなすでに中年になっているのだが、やはり慣れ親しんだ味が、一番好きなのだ。
それならばと肉うどんを試してみたところ、これがかなりうまい。甘辛くたかれた肉が加わると、優しめのツユが一気に力強くなる。そこにすすりこむ、やわめのうどん。このギャップもたまらない。この味を中学生で覚えたら、中年になっても頼んでしまうね。
鉄鋼の街で50年。周りの風景は変われど、『いはら屋』はずっと変わらず川崎のおいしいそばを作り続けてきた。だからこそ長く愛されてきたし、それはこれからも、きっと変わらないのだ。
『いはら屋』店舗詳細
取材・文・撮影=本橋隆司(東京ソバット団)